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ギルド受付嬢の新しい暮らし  作者:
物語は始まる

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16/21

第10章 最初の改稿

 新しい改稿原稿を送り届けてからちょうど二日後、その電子メールは茜のスマートフォンの受信箱へと滑り込んできた。

 件名欄には、いかにも事務的で、一切の無駄を削ぎ落とした硬質な言葉が並んでいた。――『第一次改稿について』。本文には、時候の挨拶も前置きもなく、ただ簡潔な一文だけが記されていた。

「明日、午後四時。いつもの会議室にて。――佐藤」

 原稿の出来が良くなっているのか、それとも以前より悪化してしまったのか、その手がかりとなる言葉はどこにも見当たらない。

 茜はエプロンのポケットに端末を収めながら、佐藤さんの意図を読み取ろうと、そのそっけない一文を何度も読み返した。その日のカフェでのアルバイト中、彼女の思考の歯車は、終わりのない円環のように同じ大きな疑問の周りをぐるぐると回り続けていた。――現役のベテラン編集者の目に、私の手直しした原稿は一体どう映っているのだろう。


 出版社の大きな建物の回廊は、数週間前に茜が初めてここを訪れた時と何一つ変わらない表情で佇んでいた。

 フロントのカウンターの奥には、あの日と同じ受付の女性が静かに座っており、長い廊下には同じ木製のロッカーが並び、隣の部屋からは高速で稼働するコピー機の鈍い駆動音が微かに漏れ聞こえてくる。茜は編集部の重い木目のドアの前で足を止めた。深く息を吸い込んで、早鐘を打ち始めていた心臓の拍動をどうにか宥め、それから表面を二回、静かにノックした。

「入りなさい」

 奥から、低く落ち着いた声が響いた。

 茜はゆっくりとドアを押し開けた。「失礼します、佐藤さん」

 佐藤さんは、書類の山で埋め尽くされた事務机の奥に、背筋を伸ばして座っていた。彼の目の前には、茜が提出した小説の改稿原稿が置かれている。紙の束は以前よりずっと分厚くなり、そこには確かな重みがあった。

 いくつかのページの端からは、鮮やかな黄色い付箋の小片が不格好に飛び出しており、余白のところどころには、鉛筆の細い線で下線や細かな書き込みが施されているのが見える。佐藤さんはすぐに言葉を発しようとはしなかった。彼はただ、短い仕草で目の前の木製の椅子を指し示し、茜に腰を下ろすよう促した。

 室内は、あのお馴染みの、息の詰まるような濃密な静寂へとたちまち沈降していった。茜はこの沈黙が持つ意味をすでに知っていた。佐藤さんは、自らの口を開いて作品を解剖し始める前に、必ずもう一度だけ、目の前の原稿に静かに目を通すのだ。

 数秒の、じりじりとするような時間が流れた。佐藤さんはようやく、手元の大切な原稿の束を、静かではあるが確実な動作で閉じた。

「ずいぶんと、筆の速い書き手だな」

 佐藤さんの平坦な声が、室内の凍りついた空気を破った。

 茜は不意を突かれ、両目をわずかに見開いた。「え?」

「改稿の進め方のことだ」佐藤さんは、その分厚い原稿の束を、茜の手元へとゆっくり押し戻しながら繰り返した。「正直に言えばね、君のような新米は、自分のプライドを慰めるために第一章の推敲だけで何週間も足踏みし、そのまま自滅していくものだとばかり思っていたよ」

 茜の口元に、偽りのないささやかな笑みが浮かんだ。「実は……私も、その愚かな罠に引っかかりそうになっていたんです、佐藤さん」

「ほう。何がそれを踏みとどまらせたんだい?」

「この前、佐藤さんが最後に言ってくださった言葉が、急に頭の中で蘇ってきたんです」茜は編集者の目を真っ直ぐに見つめた。「前半の歪みは後からいくらでも直せる、今一番君の手を待っているのは、まだ書かれていない残りのページたちだ、という言葉が」

 静かな夜の気配が、室内にゆっくりと降りてきた。佐藤さんは珍しく、小さく首を縦に振った。彼の眉間に刻まれていたあの厳格な皺が、わずかに和らいだように見えた。「書き手として、きわめて正しい選択だよ」

 彼は再び、手元の原稿の束を開いた。しかし今回の彼の指先は、第一章の導入へと戻ることもなければ、新しく書き足された第七章へと跳ねることもなかった。黒いペンの先端が止まったのは、さらにその数章先、最新のページの端だった。

「第十章だね」佐藤さんは明瞭に告げた。

 茜は無意識のうちに上体を前へと傾け、手元へと視線を集中させた。佐藤さんは紙の原稿を九十度回転させ、茜の胸元へと真っ直ぐに向けた。

「この場面の会話のブロックを、君の口から声に出して読んでごらんなさい」

 佐藤さんの短い命令に従い、茜はうつむき、白い紙の上に印刷された文字の連なりを、一文字ずつ丁寧に目で追い始めた。


     *


『……もしかして、ここは地獄なのだろうか』

 コトネ・ミナミは、肺の底から重い、やりきれない溜息を吐き出した。この目の前の謎めいた客人に、自分の置かれた荒唐無稽な状況を一体どこから説明すればいいのか、彼にはもう見当すらつかなかった。ボロボロの全身鎧を纏った目の前の少女は、自分の住むこの無秩序に散らかりきった狭いアパートの空間を、死後に罪人が送られる罰の場所なのだと、本気で信じ込んでいる様子だった。

「……いや、ちょっと待って。一回落ち着こう」ミナミは床板の上の胡坐を解き、ゆっくりと立ち上がった。彼は狭いキッチンへと歩み、冷蔵庫から冷たい水の入ったグラスを取り出すと、テーブルの上に静かに置いた。「ほら、まずはこれを飲みなさい」

 シーナは、細かな結露に覆われた冷たい硝子の器を冷ややかに見つめるだけで、それに指先一つ触れようとはしなかった。「もしここが地獄でないというのなら……ここは一体、何という場所なのですか?」

「君が今立っているこの場所は、日本という名前の国だよ」

「にほん……」シーナは、その未知の響きを確かめるように、不器用な発音で呟いた。

「この世界にはね、魔法なんていう大層な技術を操れる人間は、ただの一人も存在しないんだ」

 シーナの美しい瞳が弾かれたように跳ね上がり、信じられないという風にミナミの顔を真っ直ぐに見据えた。「ただの一人も、ですか?」

「ああ、一人もいない」

「では、大気の中に満ちているはずのマナのエネルギーは?」

「完全にゼロだ。そんなものは、この世界には一滴も存在しないよ」

「この現代の世界にはね、冒険者ギルドなんて名前の建物は、逆立ちしても見つからない」

「受付のカウンターで、新米を監視するように座っている窓口の人間もいない」

「討伐の依頼書を貼り出すための、大きな木製の掲示板もない」

「毎朝、窓口の前にやってきては、大声で文句を喚き散らすような傲慢な冒険者の群れもいないんだ」

「そしてね……この世界には、君に魔物の討伐報告書の山を点検させようとする人間なんて、もうどこにもいないんだよ、シーナ」


     *


 茜は読み上げるのをやめ、静かに口を閉じた。佐藤さんは手際よく、その原稿の束を自分の側へと引き戻した。

「君自身の書き手としての分析として、今の会話の場面で、一体何が起きていると思うかい?」佐藤さんは試すような目で尋ねた。

 茜は数秒の間、自分の頭の中で創作の理論を組み立てようと沈黙した。「ミナミというキャラクターが、シーナに対して、この現代の世界の基本的な仕組みを説明しようとしています」

 佐藤さんは即座に首を横に振った。「違う。完全に間違っているよ」

 その拒絶はあまりにも容赦なく、真正面から突きつけられたため、茜の心臓は一瞬で冷たく縮み上がった。彼女は自分の書いた文章を、困惑に眉をひそめながらもう一度見つめ直した。

「もう一度、よく目を凝らして読んでごらんなさい」佐藤さんの声は厳格だった。

 茜は素直にその命令に従った。ミナミとシーナの間で交わされる言葉のキャッチボールを、一文字ずつ、ゆっくりと網膜に焼き付けていく。編集室は、再び深い沈黙に包まれた。佐藤さんはあえてそれ以上のヒントを与えようとはせず、茜の書き手としての直感が、自力でその答えの位置まで辿り着くのをじっと待っていた。


 静かな時間が流れ、やがて、茜の脳裏にひとつの鮮烈な理解の光がひらめいた。彼女は顔を上げ、その瞳を驚きに輝かせた。

「……この場面で、シーナは日本の仕組みを学んでいるんじゃない。彼女は……自分の生きてきた世界のすべてを、失っている最中なんだ」

 佐藤さんはすぐには言葉を返さなかった。彼はただ、机の上に置かれていた一本の木製鉛筆を手に取った。細い芯の先端が、原稿のひとつの行を静かに指し示す。――『冒険者ギルドなんて名前の建物は、見つからない』。

 鉛筆の先は、次の行へと滑るように移動した。――『窓口の人間もいない』。

 原稿の上を滑る芯の動きは、最後の一文の上で完全に停止した。――『討伐報告書の山を点検させようとする人間なんて、もうどこにもいない』。

「まさに、ここだ」佐藤さんは鉛筆の先で、紙の表面をトントンと優しく叩いた。その音が、静まり返った室内に心地よく響く。「この物語の、本当の感情の爆発は、この三つの台詞の中に眠っているんだよ、茜ちゃん」

 茜は完全に新しい視点を持って、その短い文章を見つめ直した。

「ベースの構成としては、私はあそこでミナミの台詞を借りて、読者に向けてこの世界の背景を説明しているはずです」茜はどこか躊躇いがちに呟いた。

「文章の形の上では、確かにミナミはそのような役割を果たしているよ」佐藤さんは肯いたが、その眼差しは鋭さを増した。「けれどね、その行を読んでいる読者の胸の奥に湧き上がる本物の感情は、現代の世界の便利さや目新しさなんかじゃない。彼らが感じているのはね……ギルドの受付嬢としての、自分の存在そのものを一瞬にして完全に剥ぎ取られてしまったシーナの、張り詰めた心の均衡だ。彼女の足元から、これまで生きてきたファンタジーの世界が音を立てて崩壊し、擦り切れて消え去っていくという冷厳な喪失感なんだよ」

 室内は再び、静寂に満たされた。茜は自分の原稿を、先ほどよりもずっと長い時間をかけて見つめ続けた。深夜の静まり返った部屋でキーボードを叩いていた時、彼女はただ、日本の設定を説明するためのありふれた会話を書いているつもりだったのだ。その一言の裏側に、これほどまでに濃密な精神のドラマが隠されているとは、夢にも思わなかった。

「もし君が、一人の作家として自分の作った世界の細部を読者に伝えたいと願うなら」佐藤さんは原稿の束を、作品への敬意を込めてゆっくりと閉じた。「……語り手の都合のいい解説や、作者自身のエゴに言葉を喋らせてはならない。常にキャラクターの目と、その生の感情だけを信じて言葉を紡ぎなさい」

 茜は乾いたスポンジが水を吸い上げるように、その生きた教えを自らの胸の奥へと深く刻み込んだ。佐藤さんは再び同じページを開き、ミナミの台詞の行を指さした。

「このミナミという男の姿を見てごらんなさい。彼はあそこで、電気の仕組みについて長々と講義をしているかい?」

「いいえ、佐藤さん」

「歴史の教科書にあるような、国の成り立ちを説明するために紙幅を浪費しているかい?」

「いいえ」

「では、どうしてこの不格好な尋問の場面が、これほどまでに生き生きと読者の目の前を流れ始めると思う?」

 茜は再び口を閉じ、プロの答えをじっと待った。佐藤さんは自らの問いに対して、確信に満ちた声で言葉を返した。

「あそこでのミナミはね、教壇の上から退屈な講義を垂れ流す教師なんかじゃない。彼はただ、自分の目の前に現れた正体不明の孤独な少女に対して、自分の持ちうる拙い言葉を必死にかき集めて、なんとか状況を理解させようともがいている一人の普通の若者だ。それだけだよ」

 佐藤さんは、椅子の背もたれにより深く体重を預けた。「キャラクター同士の関係性のなかから自然に生まれ出てくる世界の描写はね……作者の頭の中だけで組み立てられたどんな立派な理論よりも、遥かに読者の心を強く揺さぶるものなんだよ」

 茜はすぐに小さなノートを開き、手元のペンを滑らせてその言葉の本質を書き留めた。言葉をそのまま書き写すのではなく、書き手としての直感で捉えた真実だけを、一行に変えていく。――『作者が説明するな。キャラクターの行動に語らせろ』。

 佐藤さんは、茜が真剣な手つきでノートにペンを走らせる様子をじっと見つめていた。その唇の端に、本当に僅かな、注意していなければ見落としてしまうほど微小な薄い笑みが、静かに浮かんでいた。


「今日の打ち合わせに関して言えば……」佐藤さんは原稿の束を、手のひらで優しく叩いた。「……君の原稿には、私からの赤字はほとんど入っていないよ」

 茜は不意に顔を上げ、その瞳を驚きに大きく見開いた。「本当ですか、佐藤さん?」

「昨日届いた第七章からの君の文章はね……」佐藤さんは一呼吸置き、その言葉の重みを室内に響かせた。「……君の作ったファンタジーの世界のキャラクターたちが、ようやく、紙の上で本当の人間として自分の言葉を喋り始めている」

 その評価の言葉はどこまでも淡々としており、過剰な賞賛の響きなど一切含まれてはいなかった。しかし、どうしてだろう。佐藤さんの口からその一言が滑り落ちるのを聞いた瞬間、茜の胸の奥を占めていたあの息苦しさは、世界のどんなに美しい賛辞を受け取るよりも、遥かに深い喜びと安堵に変わっていった。それは、自分のこれまでの不器用な戦いに対する、最も欲しかった本物の免罪符だった。

「もちろん、これを本にするまでには、直さなければならない細かな不手際や技術的な歪みはまだ数え切れないほど残されているけれどね」佐藤さんは手元のバインダーを閉じ、今日の編集作業の終わりを告げた。

「はい、十分に理解しています、佐藤さん」

「けれど……」佐藤さんは茜の目を真っ直ぐに見据え、彼女の背中を支えるような確かな質量を持った声を届けた。「……書き進めなさい。決して筆を止めてはならないよ」

茜は先ほどまでの迷いを完全に振り払い、新しい確信を込めて力強く首を縦に振った。「はい! 必ず、最後の結末まで書き上げます」

彼女は自分にとって最も大切な紙の束をキャンバスバッグへと慎重に収め、席を立った。上体を九十度の角度まで深くへし折り、心の底からの感謝を込めて一礼する。「今日も丁寧なご指導、本当にありがとうございました、佐藤さん」


編集室を出て古いドアを静かに閉めた時、茜の足取りは、数週間前に初めてこの出版社の敷居を跨いだ時よりも、遥かに軽やかで、地面にしっかりと足がついているのを感じていた。彼女がバッグに入れて持ち帰る原稿は、決して一ミリの欠陥もない完璧な代物などではない。

しかし……自分の書き手としての人生のなかで、初めて。彼女は、自らの頭の中から産み落としたはずの架空のキャラクターたちが、作者の都合で後ろから無理矢理に押し動かされることをやめ、自分たちの両足で、この紙の上の世界を真っ直ぐに歩き始めているのを、確かに感じ取っていた。

彼らは今、この文章の中で、本物の生命を宿して生き始めていた。


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