表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ギルド受付嬢の新しい暮らし  作者:
物語は始まる

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/27

第9章 雨の日の習性

 夜明け前から、ビジネス街の片隅はしめやかな雨に濡れていた。

 歩行者を立ち往生させるような激しい豪雨ではない。ただ音もなく、 煙るように降り続く細い雨だ。それでもアスファルトを色とりどりの 傘の群れで埋め尽くすには十分な量で、オフィスへと急ぐ人々は一様 に首をすくめ、足早に通りを過ぎ去っていく。

 ガラス窓が白く曇り始めた大通りのカフェ。その店内の空気は、外 の喧騒を嘘のように吸い込んで停滞していた。立ち寄る客のほとんど は持ち帰り用の紙コップをひったくるようにして去り、奥のボックス 席に腰を落ち着ける物好きは、指で数えるほどしかいない。

 午前中、入り口のベルは数えるほどしか鳴らなかった。店内の空気 はどこまでも緩慢だ。

「今日は一段と静かね」

 店長の美咲さんが、カウンターの上で分厚い台帳をパタンと軽い音 を立てて閉じた。

「そうですね」

 茜は手元の布巾を動かしながら、曇った窓の外に目をやる。

 いつもなら昼時を前にして馴染みの客で埋まるはずの窓際四番テー ブルは、ぽっかりと空白のままそこにある。エスプレッソマシンも蒸 気を吐き出す役目を忘れたように黙り込み、結果として、ガラスを 叩く雨粒の微かな音だけが、店内の妙に広い空間を支配していた。

「これだけ暇なら」

 美咲さんがカウンターの端にある冷蔵庫を開け、木製の小さな盆を 取り出した。

「ちょうどいいわ。このサンプル、今日で片付けちゃいましょう」

 盆の上には、きな粉を薄くまとった一口サイズの小ぶりな餅が、 幾つか行儀よく並んでいる。

 茜は自分の額を軽く叩いた。先週、美咲さんが「来シーズンの デザートメニューの選定を金曜にやる」と言っていたのを、すっかり 失念していた。

 カラン、とドアベルが遠慮がちに鳴った。濡れたトレンチコートを 纏った男性客が、黒い折りたたみ傘を払いながら入ってくる。

「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

 茜の挨拶に男は小さく会釈で返し、迷わず窓際の席を選んだ。 注文はブレンドコーヒーが一杯だけ。品物を運んでしまえば、店は 再び呪術的な静寂へと逆戻りした。

 美咲さんがバックヤードの暖簾に視線を向ける。

「しおり」

「はいっ、お呼びでしょうか!」

 短い髪を揺らしながら、しおりが厨房から飛び出してきた。この 鬱屈とした梅雨空の下には、いささか過剰すぎるほどのエネルギー量 だ。

「これ、サンプル。お客さんに勧めてみて」

「了解です、ボス!」

 しおりは両手で盆を受け取り、目をきらきらと輝かせた。「さっそく 行ってきます」

「丁寧にお願いね」

 美咲さんの静かな釘刺しを背に、しおりは弾むような足取りで 窓際の男性客へと近づいていった。その顔には、一点の曇りもない 営業用の笑みが張り付いている。

「失礼いたします、お客様」

 しおりの声に、男が読んでいた文庫本から顔を上げた。

「本日、あいにくの雨模様ということで、当店では新作デザートの 試食キャンペーンを行っておりまして」

 しおりは小さな菓子楊枝を器用に扱い、きな粉の餅をひとつ 持ち上げた。

「よろしければ、おひとつどうぞ。無料ですので」

 差し出される餅。しかし、その突き出された右腕は、男の目の前で まったく不可解な軌道を描いて急カーブした。

 ぱくり。

 ――店内が、一瞬にして墓地のような静けさに包まれた。

 しおりの口元は、一定のリズムで従順に餅を咀嚼している。対面の 男性客は、呆然と口を開けたまま目の前の給仕係を凝視していた。 レジの前に佇んでいた茜も、完全に思考を停止させて動きを止める。

 しおりの顎がピタリと止まった。彼女は二回ほど、ゆっくりと 瞬きをした。ようやく事態の異常性に脳が追いついたらしい。

「……」

 男性客は、ただ無言で彼女を見つめている。

「っ、す、すみません!」

 しおりは直角に近い角度で頭を下げた。盆の上の餅が危うく 滑り落ちそうになる。その顔は、またたく間に完熟したトマトのように 赤く染まっていった。

「あの、本当に申し訳ありません! 完全に、身体が勝手に……!」

 その必死すぎる狼狽ぶりに、男性客は毒気を抜かれたように、 喉の奥でくつくつと笑い声を漏らした。

「いや、いいよ。気にしないで。面白いものが見られたから」

 しおりは這うようにしてカウンターの裏へと急ぎ足で戻ってきた。 両頬の赤みは引く気配がない。

 美咲さんは、盆の上の不自然な空白を冷ややかな目で見つめた。

「それで? サンプルは売れたの?」

「……私が美味しくいただきました」

 しおりが消え入るような声で白状する。

 美咲さんは数秒間、無言でしおりを観察したあと、ため息混じりに 告げた。

「次からは、客席に向けるのは愛想じゃなくて、その手元にしなさい」

「善処します……」

 それから数十分後、またドアベルが鳴り、今度はニットのカーディ ガンを羽織った若い女性客が入ってきた。温かいカフェラテを 注文した彼女は、隅の席で物憂げに雨を眺め始めている。

 しおりという生き物は、どうやら鋼鉄の心臓を持っている らしかった。彼女は再び盆を持ち上げ、妙な決意を瞳に宿らせる。

「美咲さん、もう一回だけチャンスをください。次こそは」

 美咲さんは渋々といった様子で頷いた。

「自分の右腕の動きを、よく監視しておくことね」

「任せてください!」

 しおりは慎重な足取りで、今度は隅の席の女性へと歩み寄る。

「失礼いたします。ただいま、試作の餅菓子の試食を行っており まして」

 彼女は本日最高密度の笑みを浮かべた。

「よろしければ、お召し上がりください」

 女性客は顔を上げ、しおりの笑顔につられるように微笑んだ。

「あら、いいんですか? ありがとうございます」

 しおりは快活に頷き、二つ目の餅を菓子楊枝で突き刺した。 その腕は確かに、女性客の取り皿へと向かって真っ直ぐに伸びて いた。しかし、それは重力の悪戯か、あるいは彼女の細胞に刻まれた 太古の遺伝子の仕業か。しおりの手首は、最後の数センチのところで またしても急旋回した。

 ぱくり。

 ――やはりその餅は、しおりの口内へと見事に吸い込まれた。

 カウンターの奥でグラスを拭いていた茜は、持っていたクロスを 落としそうになった。隅の席の女性客も、目の前の怪現象に開いた 口が塞がらない様子で固まっている。

 当のしおりは、蝋人形のようにその場に凝固していた。両頬だけが 奇妙に膨らみ、咀嚼筋だけが自動的に動きを再開させている。

 そこには、完璧に不条理な静寂が横たわっていた。

「……」

「……」

「……ふびまふぇん(すみません)」

 餅を噛みながら放たれたしおりの声は、怨霊の囁きよりも小さく 惨めだった。

 だが、女性客は怒るどころか、突然手を叩いて楽しそうに 吹き出した。

「嘘でしょう、あなた最高に面白いわね!」

 しおりは空になった盆で顔を覆い隠し、カウンターへと逃げ帰る。 「なんでまた口に入っちゃうかなぁ……」と、道すがら本気で 絶望していた。

 美咲さんが、胸の底から重苦しいため息を吐き出した。

「しおり」

「はい、店長……」

「あなたがさっきからやっている行為はね」

 美咲さんは一言一言を含めるようにして言った。

「接客でもプロモーションでもないわ」

 しおりは首をすくめ、さらに小さくなる。

「……ただの、つまみ食いです」

 ぶっ、と茜は思わずレジの下に屈み込んだ。

 肩が激しく上下する。喉の奥からせり上がってくる笑い声を 噛み殺すのに、全神経を注がなければならなかった。

 しおりがそれに気づき、恨みがましい視線を向けてくる。

「茜さん……お願いですから、笑わないでください……」

「笑って……ふふ、笑ってない、ですよ」

 茜は深呼吸をして声帯を震わせないよう固定し、可能な限り 平坦な顔を作ってみせた。しかし、引き攣るように吊り上がった 口角までは隠しきれない。

 この木目調の小さなカフェでアルバイトを始めて以来、茜は 初めて「己の習慣に完全に敗北した人間」を目の当たりにした。 しおりに悪意があるわけでも、客をからかう意図があるわけでも ないのは明白だった。彼女の右腕には、脳の命令系統とは独立した 別の神経回路が通っているとしか思えないのだ。

 美咲さんが最終宣告のように、しおりの手から盆を没収した。

「もういいわ。これは私が厨房に下げておくから」

「すみませんでした、私の不徳の致すところで……」

 しおりの落ち込みように、美咲さんの険しい表情もいくらか 軟化した。

「いいわ。ただ、次の試作会のときは、その餅が自分ではなく お客さんの胃袋に着地するよう、軌道計算の練習をしておきなさい」

「了解、しました……」


     *


 窓の外の雨は、夕刻が近づいても一向に衰える気配を見せ なかった。

 数人の客が濡れた傘を携えて入ってきては、また数人が静寂を 残して去っていく。それでも、カフェの内側に流れる時間は、 幕切れのない映画のように、一定の平熱を保ち続けていた。

 茜は清潔なクロスを手に、空いた窓際のテーブルを拭きにいく。 チラリと視線を向けると、しおりは何事もなかったかのように、 カウンターの棚に磁器のカップを整然と並べていた。二時間前の あの醜態など、彼女の人生の年表には最初から存在しなかった かのような澄まし顔だ。

 なぜだろう。しおりと餅の、あの滑稽な一連のシーケンスが、 茜の脳裏から離れなかった。思い返すうちに、彼女の中で妙な 納得が形作られていく。

 ――人間のキャラクターについて、私は大きな勘違いをして いたのかもしれない。

 茜は自身の趣味であるファンタジー小説の執筆において、 常に他者の「意識的な行動」ばかりを観察し、メモに書き留めて いた。スーツを着た男の椅子の座り方、あるいは常連の老婦人が 店にやってくる時間帯。しかし今日、しおりのあの致命的な 粗相を見て気づかされた。本当に魅力的な人間のディテールとは、 本人すら自覚していない「無意識の習慣」の中にこそ転がって いるのではないか、と。

 合理的ではない、だからこそ嘘のない、その人だけの骨格。

 茜はガラス窓を這い落ちていく雨粒を見つめ、口元に 誰にも気づかれないほどの小さな笑みを浮かべた。

 現実の世界に生きる人間は、狭い自室で想像していたよりも、 遥かに滑稽で、そして豊かな皮膚感覚を持っている。

 今夜、自室の机で再開するであろう、自身の原稿の第八章。 その白紙の行間に、この「愛すべき人間の嘘のなさ」をどう 滑り込ませようか。茜はそれを考えると、少しだけ胸が高鳴る のを禁じ得なかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ