第8章 金曜日のファミレス
卓上のデジタル時計の数字が午後八時を回った頃、茜たちは「CLOSED」の木製看板を裏返しに外へと向けた。
ドアの枠に吊るされた真鍮ベルのけたたましい高音も、ようやくその役目を終えて沈黙する。昼下がりの狂乱をそのまま受け止め、忙しなく軋んでいた木製の椅子は一つ残らず主を失い、今は無機質な記号のように整然とテーブルに向かって並んでいた。店内には、今日から使い始めたブラジル・サントスの深いカフェインの残香がまだ薄く漂っており、それがバックヤードで拭き上げられたばかりのガラスから香る、洗剤の清々しい匂いと穏やかに混ざり合っている。
茜は最後の磁器カップが載ったプラスチック製のトレイを持ち上げ、カウンターの隅にあるシンクへとゆっくり歩み寄った。
「そこに置いておいていいわよ、茜ちゃん」エスプレッソマシンの影から、美咲さんのいつも通りの平坦な声が響いた。彼女は清潔な白いダスターを手に、マシンのステンレス表面を熱心に磨き上げているところだった。「残りは私が片付けておくから、もう上がりの支度をしなさい」
「あ、大丈夫です、美咲さん」茜は蛇口のレバーをひねり、小さく首を横に振った。「あと数個しか残っていませんから。これだけ終わらせてしまいますね」
美咲さんはそれ以上、言葉を重ねて制止しようとはしなかった。このカフェのオーナーは、無駄な世間話や、他人が差し出してきた純粋な善意をあべこべに拒絶することを嫌う性質だった。誰かが本気で手を貸したいのだと口にすれば、彼女は余計な詮索をせず、ただその意志の通りに動かせてくれる。
水道の澄んだ水流が、静まり返ったフロアに心地よい音を立てて響き渡る。間もなくして、ストックルームの重い木製ドアが開き、結衣ちゃんがしっかりと蝶結びに縛られた大きな黒いゴミ袋を抱えて姿を現した。
「本当にお疲れ様。今週の金曜日は、なんだかいつもより一段と骨が折れる戦場だったわね」結衣ちゃんは茜の横顔に視線を投げかけ、自嘲気味に笑った。
茜は手元の水滴をブラウスの袖で拭いながら、短く肯いてみせた。「ええ、ものすごい混雑でしたね」
「週末の金曜日なんて、大体どこもこんなものよ」結衣ちゃんはゴミ袋をバックヤードの非常口の脇へとそっと下ろした。「肉体的にはかなり応えるけれど、その代わり時間の流れが恐ろしいほど速く感じるじゃない? 気づけばもう、シフトの終わり(ゴール)に辿り着いているんだから」
茜はその合理的な言葉に、心からの同意を込めて小さく頷いた。その短い交わしの後、三人は再び、残された些細な締め作業を終わらせるためにそれぞれの定位置(座標)へと散っていった。もう誰も言葉を発しようとはしない。空間を満たしているのは、皿と皿が触れ合う硬質な音、マシンの電源が落とされる際の短い排気音、そして椅子の脚が床板と擦れ合う摩擦音。それら店じまいのための、静かなシンフォニーだけだった。
二十分ほどの時間が流れると、カフェの内部は完全に、本来の静かで気怠い平穏を取り戻していた。美咲さんは黒いリネンのエプロンを外し、壁のハンガーへと丁寧に掛けた。
「明日の土曜日は、二人とも十一時からのシフトだからね」美咲さんは腕時計の文字盤に視線を落としながら、淡々と告げた。
「はい、美咲さん。かしこまりました」茜は立ち位置を正し、即座に応じた。
隣にいた結衣ちゃんも、それに倣うようにして素直に肯く。「はい、分かりました」
美咲さんは事務机の上から自分の革のハンドバッグを拾い上げ、入り口へと歩き出した。「それじゃあ、また明日。夜道は気をつけて帰りなさいね」
「お疲れ様でした、美咲さん」二人の声が重なり、上体を軽く傾けてプロの先輩を見送った。
非常口の重いドアが完全に閉まり、背後に濃厚な静寂だけが取り残されると、狭い更衣室には茜と結衣ちゃんの二人だけが取り残された。結衣ちゃんは肺の底から長い、解放感の滲む溜息を吐き出すと、両の手腕を天井に向かって思い切り突き上げ、凝固していた背中の筋肉を大きく伸ばした。
「うわあ……終わったあ! 今日の任務、すべて完了ね!」結衣ちゃんが歓声を上げる。
茜はその無邪気な仕草に誘われるようにして、自然な微笑みを浮かべた。「ええ、本当にお疲れ様」
二人はカフェの鍵を閉め、夜の帷が完全に下りた暗い路地へと足を踏み出した。外の空気は、昼間のあのねっとりとした不快な蒸し暑さが嘘のように引き、浅い春特有の冷涼で清々しい風が舗装路を吹き抜けていく。地下鉄の駅へと続く大通り沿いには、様々な飲食店や居酒屋のネオンサインが、夜の街を彩るために鮮やかな原色を放ち始めていた。都会の夜の断片が、そこに剥き出しのまま転がっている。家路を急ぐサラリーマンの群れが緩慢な足取りで歩く傍ら、道路脇の小さな赤提灯や大衆食堂は、一日の労をねぎらうための人間たちですでに満席に近い賑わいを見せていた。
結衣ちゃんは冷えた両手をデニムジャケットのポケットに突っ込み、歩調を緩めた。彼女は不意に視線を横に向ける。「ねえ、茜ちゃん。お腹、空いてない?」
茜は歩みを止め、少しだけ虚を突かれた。「え? あ……ええ、少し」
「もしよかったら、電車に乗る前に、どっかで軽く晩ご飯でも食べていかない?」
その誘いは、あまりにも唐突で、それでいて何の計算も含まれていない、日常の地続きの言葉だった。特別な意味も、明確な意図もない、ただの気まぐれ。しかし茜は、アスファルトの歩道の上で数秒間、完全に言葉を失って立ち尽くしてしまった。彼女の脳裏には、四畳半のアパートの折りたたみ机の上で、口を開けたまま主の帰りを待っているあの黒いノートパソコンのシルエットが瞬時に浮かび上がっていた。
昨夜、彼女は一晩中睡魔と戦いながら、あの第七章の初稿をどうにか書き上げたばかりだった。彼女が自分自身に課した傲慢なスケジュールの通りに動くのであれば、今夜はもう、次の第八章のプロット(構成案)を組み立て始めなければならないはずなのだ。
しかし、茜は結衣ちゃんの顔を見つめた。彼女は、こちらの返答をただ純粋な、親しみやすい笑みを浮かべて待っている。茜は頭を軽く振り、自分を締め付けていたあの強迫観念めいた執筆への義務感を、一度だけ無理矢理に外へと追い出した。
「ううん、大丈夫。……行こう、一緒に食べたい」
結衣ちゃんの瞳が、嬉しそうに細められた。「やった! 駅のすぐ近くに、ちょうどいいファミリーレストランがあるの。あそこなら値段も手頃だし、ボリュームもあってお腹いっぱいになれるから」
*
金曜日の夜のファミレスは、案の定、不特定多数の人間たちの喧騒によって限界まで膨れ上がっていた。あちこちから湧き上がる賑やかな話し声が、スプーンやフォークが陶器の皿と擦れ合う硬質なノイズと混ざり合い、独特の濁った大気を形成している。えんじ色の制服を纏った若いウェイトレスが、茜と結衣ちゃんをフロアの奥へと誘導し、大通りを見下ろすことのできる大きなガラス窓のすぐ脇にある、二人掛けの小さなボックス席へと案内した。
「さて、茜ちゃんは何にする?」結衣ちゃんはメニューのカラフルなページを広げながら、楽しげに視線を走らせた。
茜は並んだ料理の写真の羅列を、どこか戸惑うような目で見つめた。「私は……何でもいいよ。結衣ちゃんに合わせる」
結衣ちゃんはそれを耳にした瞬間、小さく吹き出した。「あはは、茜ちゃんって、食べ物の話になるといつもそう言うよね」
茜もつられて小さく笑い、自分の優柔不断さを気恥ずかしく思うように、頬を微かに火照らせた。「だって、私、メニューを一つに決めるまでに、ものすごく時間がかかっちゃうタイプだから」
「じゃあ、私が勝手に決めちゃっていい?」結衣ちゃんは人差し指で、ページの一角を突いた。「ここの『ハンバーグ定食』、ソースが濃厚でなかなか悪くないのよ。私も同じものを頼もうと思ってたし」
「わあ、美味しそう。じゃあ、私もそれにする」
ウェイトレスが注文を端末に打ち込み、足早にテーブルから立ち去ると、二人の間には再び、短い沈黙が降りてきた。しかし、今回の静寂は、あの狭い編集部で佐藤さんと対峙していた時の、あの窒息しそうな威嚇の空気とは全く異なっていた。それは、お互いに重い話題を切り出す必要のない、ただ肉体の疲労を静かに共有するための、ひどく心地よい沈黙だった。
結衣ちゃんは手元のアイスティのグラスを引き寄せ、ストローでひと口だけ啜った。「そういえばさ、今日の昼下がり、あのいつもホットのアメリカーノを頼むスーツの常連さん、また来てたでしょう?」
「ええ、二時少し前くらいにいらっしゃいましたね」茜は応じた。
「それで驚いちゃったんだけど、今日のあの人、めずらしく『アイスコーヒー』なんて注文してたじゃない?」結衣ちゃんは目を細め、悪戯っぽく笑った。「まあ、今日の昼間は、確かにちょっと異常なくらい蒸し暑かったからね」
茜は肯いた。「そうですね、外はすっかり初夏の空気でしたから」
「実を言うとね、レジの伝票の文字を見たとき、自分の目を疑っちゃったのよ」結衣ちゃんはくすくすと笑い声を漏らした。「私ね、あの男の人は、死ぬまで自分のルーティンを一ミリも変えないタイプの、頭の固い人間なんだって勝手に決めつけていたから」
茜の口元にも、静かな薄い笑みが浮かんだ。それは、昼間に自分がカフェのカウンター裏で到達した、あの創作のロジック(細部へのこだわり)を思い出していたからだった。「ええ。実は私も、全く同じことを考えていました」
間もなくして、ウェイトレスがジュージューと激しい音を立てる鉄板を載せたトレイを運んできた。ぶ厚い肉体から濃密な白い湯気を噴き出している二つのハンバーグが、二人の目の前に慎重に並べられる。パチパチと油が弾ける小気味よい音が店内の喧騒を一時的に撥ね退け、焼き立ての肉の香ばしい匂いが、彼女たちの胃袋を容赦なく刺激した。
「いただききます」
二人は示し合わせたように両の手のひらを綺麗に合わせ、短く唱えた。
儀式(食事)が開始された。それから数分間、彼女たちのテーブルは、ナイフとフォークが鉄板と擦れ合い、肉片を切り分ける金属音だけによって満たされていた。プレートの上の料理が半分ほど消化され、それぞれの胃袋へと収まった頃、結衣ちゃんが再び、何気ない調子で新しい話題を切り出してきた。
「茜ちゃんって、今はアパートで一人暮らしなの?」
「うん、四畳半の小さなアパートを借りてる」
「実家からは結構離れてるの?」
「少しね。隣の県だから、電車で数時間はかかるかな」
結衣ちゃんは納得したように首を縦に振った。その瞳には、微かな同質者へのシンパシーが宿っていた。「ああ、やっぱりね。私も同じ。この手の巨大な街で一人きりで 漂流しているとね、時間が経つにつれて、自分を囲んでいる静寂そのものに、嫌でも身体が馴染んできちゃうのよね」
茜はその言葉の裏にある確かな真実味を噛み締めるように、深く肯いた。「ええ、本当にその通りだと思う」
「まあ、時々ね……」結衣ちゃんは小さく笑いながら、付け合わせのフライドポテトをフォークで突き、口へと運んだ。「……仕事から帰った後、何かしらの料理を自炊するのが、死ぬほど億劫に感じられる瞬間があるんだけどね」
「それで結局、お湯を沸かしてカップ麺のフタを開けることになる?」茜は、謎掛けをするように視線を向けた。
「その通り! この前なんてね、コンロのスイッチを入れるエネルギーさえ残っていなくて、二日連続で三食すべてカップ麺で済ませちゃったんだから」
そのあまりにも生々しい独白を耳にして、二人は同時に、低く抑えた笑い声を漏らした。会話の糸は、そこから堰を切ったように滑らかに、そして軽やかにフロアの大気を泳ぎ始めた。話題は、午後八時を過ぎると一斉に恐ろしいほどの値引きシールが貼られ始める地元のローカルスーパーの裏技から、月曜日の朝の通勤電車のあの不条理なすし詰め状態の恐怖、あるいは、雨が唐突に降り始めた途端に決まって店内に傘を置き忘れていく、いくつかの常連客たちの奇妙な共通点へと、脈絡なくジャンプを繰り返していった。そして最終的には、彼女たちの雇用主である、あの美咲さんという謎めいた女性の話題へと移行した。
「私ね、本当に昔から気になってるんだけど」結衣ちゃんは左手で自分の顎を支え、首を傾げた。「……美咲さんって、怒りが限界まで達して、感情を大爆発させることなんてあるのかしら?」
茜は自分がここで働き始めてからの数週間の記憶を、厳密に手繰り寄せてみた。「私が観察していた限りでは、彼女の顔が不機嫌に歪んだり、苛立ちの声を漏らしたりする瞬間は、ただの一度も見たことがないね」
「丸二年ここにいる私だって、一度も見たことないわよ」結衣ちゃんは愉快そうに目を細めた。
二人は一瞬だけ言葉を失い、いかなる想定外の修羅場においても、常に寸分の狂いもない平坦な顔のまま淡々とカップを拭き続けている美咲さんの姿を同時に脳裏に描き、そして再び、鈴の鳴るような軽い笑い声をハモらせた。
テーブルを囲む大気は、ただひたすらに温かく、そして弛緩していた。そこには、自分の才能の限界を告げるような重い批評も、行く末の不透明な未来についての小難しい議論も、一切存在していなかった。それなのに、どうしてだろう。時間の時計の針だけが、いつもよりも遥かに凄まじい速度で前へと進んでいくのを感じていた。
ウェイトレスが、空になった鉄板と皿を回収するためにテーブルへと近づいてきた時、結衣ちゃんは不意に視線の角度を変え、茜の目を真っ直ぐに見据えた。
「そういえば、茜ちゃん。仕事が休みの日は……普段、どんなことをして時間を潰しているの?」
茜は一瞬だけ虚を突かれ、思考の歯車を数秒間だけ停止させた。脳内の引き出しから、どの言葉を現実の記号として差し出すべきか、迷っていたのだ。
「普段はね……買ってきた食材の整理をしたり、溜まった洗濯物を回したり、あとは部屋の隅の掃除をしたり、かな」
「そういう、退屈な家事が全部終わった後は?」結衣ちゃんは、純粋な好奇心を隠そうともせずに先を促した。
茜は、自らの喉の奥に生じた一瞬の躊躇いを、一度だけ短く飲み込んだ。
「……その後は、大体、小説を書いてる」
結衣ちゃんは顔を上げ、その端正な両眉をわずかに上へと動かした。「小説?」
「うん」
「それって、日記とか、個人的なブログみたいなものを熱心に更新しているってこと?」
茜はゆっくりと首を横に振り、自らの声を明確な現実の輪郭を持って固定した。「ううん。ちゃんとした、架空のフィクション小説を書いてるの」
「へえ、そうなの……」結衣ちゃんは小さく首を縦に振った。しかしその表情には、過剰な驚愕の色も、書き手のプライドを無遠慮に逆撫でするような、お節介な好奇心の気配も一切含まれてはいなかった。「それって、ものすごく格好いい趣味ね。学生の頃から、ずっとそういう創作が隠れた特技だったりしたの?」
「ううん。始めたのは、本当にここ最近のことで、まだ日の浅い新米なんだけどね」
「でも素敵よ。自分の自由な時間の中に、そういうクリエイティブな世界を持っているなんて」結衣ちゃんは心の底から感嘆したように微笑むと、手元に残っていた冷たいお茶を、喉の奥へと一気に流し込んで完全に飲み干した。
小説についての話題は、それ以上ドラマチックな尾を引くこともなく、レストランの濁った大気のなかにごく自然に溶けて消え去った。結衣ちゃんから、それが一体どんなジャンルの物語なのか、登場人物の名前は何というのかといった、無遠慮な尋問が飛んでくることはなかった。原稿の控えを読ませてほしいと強要されることもなければ、天を突くような過剰な美辞麗句で賞賛されることもない。結衣ちゃんにとって、目の前の同僚が「小説を書いている」という事実は、誰かがベランダでささやかな家庭菜園を営んでいたり、部屋の水槽で数匹の金魚を飼育しているという話を聞くのと、全く同じレベルの、ありふれた他人の私生活の断片に過ぎなかったのだ。
*
二人は地下鉄の駅の、自動改札口の手前で、互いに短い挨拶を交わして別れた。
「今日は晩ご飯に付き合ってくれて、本当にありがとう、結衣ちゃん」茜は上体を軽く傾けた。
「こちらこそ! 茜ちゃんと色んな話ができて、ものすごく楽しかったわ」結衣ちゃんは、快活に右手を振ってみせた。「夜道、気をつけて帰るのよ!」
「うん、結衣ちゃんもね」
夜の遅い時間帯の車内は、先ほどの退勤ラッシュの時のような、人間のすし詰め状態の奔流はすでに過去のものとなっていた。茜は運良く、大きなガラス窓のすぐ近くにある空席を確保することに成功した。彼女は冷たい窓ガラスの表面に自分のこめかみをそっと預け、外の高速で通り過ぎていくビル群の光の中に、自分の疲れ切った不格好な顔の影が混ざり合っているのを、ただ眺めていた。
茜の意識は再び、先ほどのファミレスでの、結衣ちゃんとの何気ない会話の残響へと時間を巻き戻していた。それは、奇妙でありながら、同時にどこか震えるほどの感動を伴う体験だった。今夜、彼女はこれまでの人生の中で初めて、この冷厳な現実の世界を生きる本物の人間(他者)に向かって、「自分は今、一冊の小説を書き上げるために戦っているのだ」という事実を、明確な文字列(言葉)にして外へと放つことができたのだ。
そして――その神聖な告白が自らの唇から滑り落ちた後も、彼女の周囲の世界には、何一つ不吉な出来事など起きはしなかった。地面が唐突に激しく揺れ動くこともなければ、周囲の人間たちが、彼女のことを「大袈裟な夢を追いかける哀れな道化(あるいは傲慢な表現者)」だと見なして冷笑することもなかった。彼女の告白は、あまりにも静かに、あまりにも地道に、ただの「日常の一片」として現実に受け入れられたのだ。
その極めてシンプルで、地面に足のついた事実が、これまで自分自身の肥大化した自意識と失敗への恐怖によって息苦しさを覚えていた茜の胸の奥に、言葉にできないほど広大な、救いのような安堵の領域を作り出していた。
鉄の塊である列車は、一定の周期を保ちながら、夜の暗闇を貫いて疾走し続ける。
茜の靴が、自分の住む四畳半のアパートの煤けた床を再び踏みしめた時、スマートフォンのデジタル時計の数字は、すでに午後十一時に限りなく近づいていた。彼女が古い木製のドアを押し開けると、室内の狭い空間は、昨夜と全く変わらない無機質な静寂を纏って、ただ主の帰還を静かに迎え入れた。
窓際の折りたたみ机の上には、あの黒いノートパソコンが、薄暗がりのなかで貝殻のように固く口を閉じたまま、無言で佇んでいた。
茜は机の脇へと歩み寄り、その精密機械の輪郭を数秒間だけ見つめていた。しかし、その瞳の中には、先ほどまでの焦燥や義務感の色の代わりに、どこまでも深く、穏やかな平穏が宿っていた。彼女の眉間に刻まれていたあの強迫的な緊張の皺は、今や完全に消え去っている。彼女の口元に、ささやかな、しかし偽りのない本物の微笑が浮かんだ。
「……今夜くらいは」茜は静まり返ったフロアに向かって、誰に届けるでもなく低く呟いた。「……たまには、書くことから少しだけ離れて、自分の身体を休ませてあげても、きっとバチは当たらないよね」
彼女はノートパソコンの天板に指先を触れることもしないまま、身体を反転させ、壁の電気スイッチをパチリと押し下げた。
狭いアパートの室内は、一瞬にして、夜の心地よい、すべてを宥めるような暗闇のなかへと没入していった。閉ざされたガラス窓の遥か彼方では、今夜の最終列車とおぼしき光の帯が、鉄路の上をゆっくりと滑り抜けていき、その鉄輪の残響を、静寂のなかへと緩やかに溶かしながら消え去っていった。都会が静かに呼吸を止め、新しい一日(明日)という名の汚れのないページを、穏やかに迎え入れようとしていた。




