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ギルド受付嬢の新しい暮らし  作者:
物語は始まる

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第7章 第七章

 夜という時間は、一日を支配していた狂気のような忙しさの後に、いつも決まってどこまでも深い静寂をもたらしてくれる。

 茜はアパートの古い木製のドアをゆっくりと閉め、鍵穴に差し込んだ鍵を回した。カチリ、と硬質な金属音が響き、それは薄暗い天井に一度だけ跳ね返ってから、すぐに部屋の底に沈殿している静寂の中に吸い込まれて消えた。彼女はキャンバスバッグを玄関の煤けた床に下ろし、履き古したパンプスを脱ぎ捨てると、そこからわずか一歩の距離しかない狭いキッチンエリアへと足をすすめた。

 電気ケトルに水道水を半分ほど注ぎ、スイッチを押し下げる。工程が完了し、湯が沸き上がるまでの数分間、彼女はただその場で一本の杭のように立ち尽くしていた。この退屈なルーティンは、いつの間にか彼女の生活における、文字に起こされることのない神聖な儀式ミサへと変貌していた。アルバイトから帰宅し、温かい黒い珈琲を淹れ、それからノートパソコンの前で原稿の白い画面と対峙する。もし今夜、この一連の連鎖のどこか一箇所でも欠けさせてしまったら、彼女は自分の日常の輪郭が奇妙に歪んでしまうような、耐え難い違和感を覚えるに違いなかった。

 数分後、濃厚なカフェインの香りが狭いアパートの隅々まで行き渡り、部屋の隅に淀んでいた冬の名残りの冷気を駆逐していった。茜はマグカップを手に取り、窓際にある折りたたみ式の木製机へと運んだ。パソコンを開いて電源ボタンを押すと、液晶画面が唐突に鋭く発光し、ここ数ヶ月の間ずっと開き続けている例のフォルダを映し出した。――『ギルドの受付嬢』。


 しかし、今夜の彼女は、未だ一文字の汚れもない真っ白な最新のページへといきなり跳ねることはしなかった。代わりに、彼女の指先はマウスを動かし、数日前の酷い眠気の中でどうにか書き殴った第六章の結びの段落を、もう一度だけ慎重に読み直すことを選んだ。

 そこには、このような文字列が並んでいた。

『シーナはゆっくりと、その重い両目を開いた。彼女はみなみの住む見知らぬアパートの、煤けた天井のすべての隅を見つめ、推敲を重ねるまでもなくその奇妙な空間を、一種の地獄――死後に与えられる罰の場所なのだと断定した』

 茜は自分の書いたその行を、無言で見つめ続けた。彼女の眉間が、不自然な角度で深く狭まっていく。

「……」

 マウスを握る右手の指先が、唐突に躊躇いの色を帯びて静止した。最後の一文が、彼女の書き手としての直感イントゥイションをひどく不快に逆撫でしてくる。彼女はゆっくりと首を横に振った。いや、これは完全に間違っている。私が作り上げたシーナという女は、もっと徹底して合理的で、強固な現実主義者リアリストのはずだ。こんな劇的メロドラマで詩的な絶望の台詞に、安易に逃げ出すようなキャラクターではない。

 茜はブロッキング機能を使ってその数行を一瞬で選択し、デリートキーを叩いた。画面の中央は、再び汚れのない白い平原へと戻る。数秒の後、彼女の指先はキーボードのキーを迷いなく叩き、新しい文字列へとそれを置き換えていった。

『もしかして……ここは地獄なのだろうか』

 彼女は新しく生まれたその一文を、喉の奥で静かに反芻した。一度。そして、二度。

 今度は、文章のリズムが驚くほど正確に腑に落ちた。無駄な装飾を削ぎ落とした簡素な表現だからこそ、シーナが持つ冷徹で分析的なキャラクターの輪郭が、冷たい質量を持って浮き上がってくる。茜は満足そうに口元を綻ばせ、データを上書き保存するためのコマンドを叩いた。それから、カーソルをさらに下方へとスクロールさせ、何もない空白の境界線へと滑り込ませた。


 第七章。黒い小さなカーソルが、汚れのない白い空間の端で、規則正しいリズムを刻みながら明滅を繰り返している。茜は最初の一文字を打ち込もうとはせず、ただその光を見つめていた。彼女にとって、このように一文字も書かれていない完全な空白のページというのは、すでに無数の文字で埋め尽くされた原稿の束よりも、遥かに暴力的で、書き手を激しく威嚇してくる存在だった。

 彼女はマグカップを持ち上げ、まだ熱すぎる珈琲の表面に息を吹きかけた。白い湯気がかすかな輪を描いて宙に溶けていく。温度が下がるのを待つ間、彼女の脳裏は、数日前のあの狭い編集部の光景へと時間を巻き戻していた。目の前に座っていた、佐藤さんのあの感情の削ぎ落とされた真剣な顔が、不意に鮮明に蘇る。

「もし私が、本屋でこの文庫を買い求めた一人の読者だとしたら」佐藤さんは、あえて残酷なほどの間を置いて、言葉の刃を茜の首元へと突きつけてきた。「一体どういう動機があれば、七章までページをめくってくれると思うかい?」

 茜は視線を落とし、過去二ヶ月間の夜を犠牲にして積み上げてきた、第一章から第六章までの文字列の連なりを静かに反芻した。ギルド。スタンピード。川の流れ。みなみ。アパート。そして、シーナの覚醒。そこで物語は、プツリと途切れている。


 彼女は今になってようやく、あのプロの編集者が放った批判の正しさを、骨の髄まで理解していた。彼女が書いた最初の六つの章は、まだ「物語ストーリー」という織物にはなっていなかったのだ。シーナというキャラクターは、ただ作者のプロット通りに、機械の歯車のように場所から場所へと移動させられていただけだった。破壊されたギルドのホールから、次元の裂け目を経て川の流れに放り込まれ、最終的にみなみのアパートの万年床の上に着地する。彼女はまだ、紙の上で本当の人間として呼吸をしていなかった。

 茜は深く両目を閉じ、肺の底から長い息を吸い込んだ。頭の中に澱のように溜まっていた、異世界の設定説明エクスポジションという名の独りよがりなエゴを、すべて外へと吐き出すために。この第七章は、もう二度と、退屈な魔術理論や世界の歴史の講義から始めてはならない。ここから先、物語の推進力を担うべきなのは、二人のキャラクターの間に生じる、生々しいダイナミズムだけでなければならない。

 シーナ。テキストの上で交錯する、みなみ。

 茜は目を開いた。その瞳からは先ほどまでの迷いが消え、確かな確信の光が宿っていた。彼女の両手は、再びキーボードの定位置へと収まる。人差し指が最初の一打を刻み、彼女の原稿のなかで、新しい第七章の幕が静かに上がった。


   * * *


第七章 最初の尋問


 翌朝、薄いレースのカーテンの隙間から、一筋の鋭い朝の光がアパートの室内に忍び込んできた。昨夜の薄暗がりのなかでは曖昧にぼかされていた部屋の輪郭が、真上から降り注ぐ垂直の光によって、容赦なくその乱雑な素顔を晒し始めていく。

 部屋の隅には、乱雑に積まれた漫画の単行本が今にも崩れそうな角度で傾いており、テレビ台の脚の近くには、炭酸飲料の空き缶がいくつか、投げ出されたように転がったままだ。そして木製の椅子の背もたれには、コンビニエンスストアの不格好なプラスチック袋が所在なさげにぶら下がっている。室内の物質は、昨日から何一つとしてその座標を変えてはいなかった。すべてが、いつも通りの退屈な位置に凝固している。

 ただ、一つだけ。この朝を普段の日常から決定的に隔てている、微小な細部ディテールが存在していた。部屋の中央に置かれた小さな折りたたみテーブルの上に、二つの磁器のマグカップが並び、そこからごく薄い、温かい湯気が揺らめきながら立ち上っていた。


 みなみはその一方のカップの前に胡坐をかいて座り、大きな両手で、温まりきったセラミックの表面を包み込むようにして握りしめていた。まるで、その微かな熱から、これから始まる対話のためのなけなしの勇気を搾り取ろうと試みているかのようだった。彼は時折、熱すぎる液体の表面に小さく息を吹きかけ、それから不器用な動作でほんの少しだけそれを口に含んだ。中身は、キッチン収納の奥に眠っていた一番安い麦茶に過ぎない。お世辞にも客人に差し出すような代物ではなかったが、現在のみなみの生活空間には、それ以外の備蓄など一滴も残されてはいなかったのだ。

 テーブルのちょうど真向かいでは、シーナが背筋を真っ直ぐに伸ばし、軍人のような恐るべき規律の正しさで直立に近い姿勢を維持していた。彼女の両手は膝の上で几帳面に行儀よく重ねられ、その深い色彩を宿した美しい瞳は、数分前に二人が向かい合って腰を下ろした瞬間から、ただの一度もみなみの顔から外されることはなかった。

 室内は、再び息の詰まるような濃密な沈黙へと沈降していった。みなみは耐え切れずに身体を揺らし、実際には何のかゆみも感じていないはずの右の頬のあたりを、指先で落ち着きなく引っ掻いた。彼は認めざるを得なかった。自分という人間は、昔から見知らぬ他者と言葉を交わすことが、致命的なほどに苦手なのだ。ましてや……昨日の夕方、街外れの川岸で、泥を浴びたボロボロの全身鎧アーマーを纏ったまま唐突に気絶していた、この正体不明の少女が相手となれば、なおさらだった。


「あの……」

 みなみは喉の奥から声を絞り出し、どうにかその場の凍りついた空気を破ろうと試みた。

 シーナは言葉を返さなかった。ただ、その視線の焦点がわずかに微動し、男の顔の輪郭をさらに強固にロックしただけだった。

「その、傷の具合は……」みなみは喉の奥にへばりついた気まずさを追い払うように、小さく咳払いをした。「……少しは、良くなったのかい?」

 シーナは硬質で、事務的な小さな結節を見せるように肯いた。「ええ。ずいぶんと、良くなりました」

「あ、そう。なら良かった」

 再び、気まずい沈黙の澱が二人の間に降り積もっていった。みなみは手元の麦茶を、すでに半分近くまで飲み進めていた。この耐え難い拒絶の空気は、部屋のなかのすべての酸素を希薄にさせていくようだった。彼はカップのなかに形成された茶色い液体の小さな渦を長い間見つめていたが、やがて意を決したように顔を上げ、目の前に座る謎めいた異邦人の瞳を真っ直ぐに見据えた。

「率直に言わせてもらうけれど」みなみは小さく、自嘲気味な笑い声を漏らした。もっとも、その声音は楽しげというよりは、神経質な怯えを孕んで震えていた。「……俺は、今この瞬間になっても、自分の身に起きたことが全く信じられないでいるんだ」

 シーナは表情一つ変えず、彫刻のように凝固したままだ。

「つまり、昨日の夕方のことだ」みなみは右手を挙げ、アパートの天井の、そのさらに上にある虚空を指し示した。「……君は、本当に文字通り、空から直接ここに降ってきたように見えた。異論の余地がないくらいにね」

 男は長い息を吐き出し、肩に溜まっていた最後の緊張をどうにか弛緩させた。

「だから……君は一体、何者なんだ?」

 この物語の核心を突くべき決定的な問いが、ついに彼の唇から滑り落ちた。昨夜、彼女を背負ってアパートの階段を駆け上がった瞬間から、彼はこの疑問を投げかけたくて堪らなかったのだ。しかし、昨夜の彼の肉体はあまりにも疲弊しきっており、思考の歯車を正常に回転させることすらままならなかった。


 そして今、太陽の光が天高くへと移動し、室内のすべての乱雑な輪郭が残酷なほどの現実感リアルを持って浮き彫りになったこの時間において。その問いは、彼の耳には昨夜よりもさらに荒唐無稽で、不条理な響きを伴って聞こえていた。

 シーナはすぐには言葉を返さなかった。その冷徹で静かな眼差しは、まるで目の前にいる男の精神の質量と、その人間性の信憑性を厳密な天秤にかけて測っているかのようだった。少女は、自分が今、これ以上ないほど見知らぬ異郷の土地に立たされていることを正確に理解していた。この男の住処はひどく無秩序に散らかり、その衣服の仕立ては見たこともない奇妙な形状をしており、周囲には、彼女のこれまでの長い人生のなかでただの一度も目にしたことのない、不気味に発光する様々な精密機械エレクトロニクスが配置されている。


 しかし、昨夜、自分が完全に意識を失って暗闇のなかに沈んでいた時間の間。彼女の命をあの冷たい川岸から救い上げ、ここまで運んだのは、間違いなく目の前にいるこの冴えない男なのだ。もしこの男に僅かでも邪悪な意図(悪意)があったのだとしたら、彼は無抵抗な彼女を相手に、夜通しいくらでもそれを実行する時間を持っていたはずだった。だが、彼女の肉体には何一つ不吉な痕跡は残されていない。ただ、万年床の枕の脇に、丁寧に折りたたまれた清潔な白いタオルが、一つだけぽつりと置かれているだけだった。

 シーナはゆっくりと大気を吸い込み、自分の内側にある決意の座標を固定した。「――分かりました」

 みなみは無意識のうちに、自分の背筋をさらに一段高く引き伸ばし、言葉を受け止めるための構えをとった。

「私の名前は、シーナ」

 少女はそう告げると同時に、自らの右の手のひらを、胸当ての冷たい金属の上に美しく、優雅な動作で重ね合わせた。

「ローゼンベルク王立冒険者ギルド。その、上級受付嬢シニア・レセプショニストを務めていた者です」

 みなみは瞬きをした。一度。そして、二度。

 ただその最初の一文が放たれただけで、みなみの脳内の回路は巨大な論理エラーを起こし、すべての思考が完全に停止した。彼女の口から滑り落ちたそのファンタジーの記号(用語)は、彼の生きる日常のなかには、逆立ちしても存在し得ない不条理な代物だった。


 シーナはみなみの狼狽を無視し、淡々と、しかし極めて規則正しいトーンでその説明を継続した。その口調は、まるで自分の担当する窓口で、新規の登録者に向けた業務報告レポーティングを読み上げているプロフェッショナルのそれと完全に一致していた。

「私のいた世界は、現在、大氾濫スタンピード――怪物たちによる大規模な集団襲撃の災厄に直面しています。我々の誇る第一防衛線は跡形もなく崩壊し、私が勤務していたギルドの庁舎も、敵の投射した魔術の衝撃によって根元から瓦解を始めました。私はその際、空間の歪みに生じた次元の亀裂へと巻き込まれ、そのまま……。次に目を覚ましたときには、あなたが私を見つけたという、あの川の縁に横たわっていました」

 ミニマルに区切られた狭いアパートの室内は、再び、先ほどよりもさらに分厚い静寂の層によって埋め尽くされていった。みなみの指先は、未だに麦茶のマグカップを強く握りしめたままであったが、彼はその中身を喉に流し込むという単純な動作さえ、完全に忘却していた。彼はただ、目の前に佇む異界の女の横顔を、言葉を失った呆然とした眼差しで見つめ続けることしかできなかった。


 しかし、奇妙なことに。シーナの表情のどこを探しても、他人を欺こうとする詐欺師特有の微小な歪みや、哀れみを乞うための嘘の気配は、一ミリメートルたりとも見出すことができなかった。彼女の語り口はあまりにも自然であり、あまりにも平坦だった。……まるで、自分のギルドの受付カウンターに初めて足を動かした新米の冒険者ルーキーに向かって、自らの素性を自己紹介しているかのような、絶対的な日常の響きがそこにはあったのだ。

「じゃあ……」みなみは、ようやく湿り気を取り戻した喉から、掠れた声をどうにか絞り出した。「……君は、本当に、別の世界からやってきた本物の人間(異邦人)なのか?」

 シーナは躊躇うことなく、ゆっくりと首を縦に振った。「間違いありません」

 みなみは再び手元の麦茶の残滓に視線を落とし、それからシーナの寸分の狂いもない真剣な顔を見つめ、再び手元のカップの底へと視線を戻した。

「……最悪だ」

 シーナはその言葉を聞いて、初めて自らの首をわずかに傾げた。その完璧な横顔に、微かな困惑の色が浮かぶ。

「何が、最悪なのですか?」

 みなみは両の手のひらで、自分のくたびれた顔を乱暴に擦り洗いするように覆い、それから肺の底にあるすべての空気を吐き出した。それは、彼の魂の最も深い部分から搾り出された、純粋な苦悶の溜息だった。

「異世界の救済だとか、そんな大層な物語の心配をする以前の問題なんだよ、シーナ……。俺の財布の中に残っている、今月の残りの食費は、あとたったの十円しかないんだ。それなのに、運命(神様)ってやつは、この極貧の生活空間に、ご丁寧に異世界からのファンタジーの同居人まで送り届けてくれたらしい」


   * * *


 茜の目の前で、ノートパソコンの液晶画面はどこまでも白い光を放ち続け、彼女の脳内のイマジネーションから産み落とされたばかりの最新の文字列を、正確に記録し続けていた。

 四畳半の木造アパートは、再び完全な夜の平穏な静寂のなかへと没入していた。ただ、規則正しく響くタイピングのプラスチックの打鍵音だけが、時折その静けさを心地よく満たし、紙の上の世界をさらに生き生きとした質量へと編み上げていく。

 大きなガラス窓の外では、東京という巨大な都市を構成する無数の他人の部屋の窓灯りが、夜空の星屑のように一つ、また一つと点り始めていた。

 その薄暗い、小さな世界の片隅で。彼女が日々泥水をすするようにして戦い続けている冷厳な現実と、彼女が頭の中に構築し始めたシーナたちの不格好なファンタジー。その二つの異なる世界は、今やどちらが本物であるかの境界線を曖昧にしながら、確かに同じ歩幅リズムを刻み、新しいステージに向かって静かに並走を始めていた。


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