第5話 漢字ドリルと、ハチミツ大根と、次の戦場
「はい、お疲れ様でしたー! 怜ちゃん、お母様、また明日よろしくお願いします!」
「ありがとうございました! お疲れ様です!」
スタッフたちの温かい見送りを受けながら、俺――白妙怜は、スタジオの重い防音扉を後にした。
隣を歩くお母さんは、まるで自分が褒められたかのように鼻を高くして、嬉しそうに俺の小さな手を握りしめている。
「怜、今日の演技本当に凄かったわよ! 監督さんもスタッフの皆さんも全員感動して泣いてたじゃない! お母さん、もう誇らしくて胸がいっぱい!」
「あはは、ありがとうお母さん。みんなが優しくしてくれたからだよ」
十歳児の愛らしい笑顔を貼り付けながら、俺の胃のあたりはストレスでギリギリと音を立てていた。
小さな右手に握りしめられているのは、さっき監督から渡された、あの『曰く付きの追加台本』。
端っこが少し折れ曲がったそのペラ紙には、前世で声優界の都市伝説として語り継がれていた「過呼吸寸前の壊れた笑い」のセリフが、冷徹なフォントで並んでいる。
(明日……明日、本当にこれをやるのか? 十歳の、このまだ未発達でか細い喉で……?)
車に乗り込み、お母さんが運転するミニバンの助手席に深く腰掛ける。
窓の外を流れていく夕暮れの街並みを眺めながら、俺は脳内で「前世のデータベース」を高速で検索し始めていた。
(落ち着け、整理するんだ。感情に任せて喉を締め付けながら叫ぶような笑い方をしたら、確実に一発で声帯がいかれる。最悪の場合、明日の本番どころか、これからの声優人生……いや、子役人生そのものが終わる)
前世のボイスドラマ版で、当時の伝説的声優さんが収録中に気絶したというエピソードは、ただの誇張ではない。
人間の脳は、激しい「過呼吸の演技」をリアルにやりすぎると、本当に血中の二酸化炭素濃度が下がって脳が酸欠状態に陥るのだ。これを十歳の子どもの身体で生々しく再現するのは、自殺行為に等しい。
(喉を傷めず、かつ酸欠で倒れることもなく、それでいて『観る者全員の心を叩き割るような狂気の笑い』を表現する方法……。何か、何か前世のレジェンド声優たちのインタビューにヒントはなかったか……!?)
必死に記憶の引き出しをひっくり返す。
アニメオタクとして、声優特番やブルーレイの特典コメンタリー、果ては声優専門雑誌のバックナンバーまで貪り食うように読み漁ったあの知識。今こそ、そのすべてを動員するときだ。
(……あった!)
脳裏に、前世で見た「演技派声優による発声技術の解説」がフラッシュバックする。
『絶望の笑いや過呼吸を表現するとき、本当に息をハァハァと激しく吸い込んではいけません。それだと喉が乾燥して一瞬で潰れますし、脳が過呼吸だと錯覚してしまいます。
コツは、【吐く息の隙間に、細かく短い引き笑いを混ぜる】ことです。息を吐ききりながら、喉の奥の軟口蓋を上げて、まるで引きずるように「は、ははっ……」と声を漏らす。こうすれば、喉への負担は最小限になり、観客には“本当に息が詰まっている”ように聞こえるのです』
(これだ……! さすがレジェンド、技術の次元が違う! 吸うのではなく、吐く息のコントロール。これなら十歳の喉でも、狂気と繊細さを両立させつつ、安全に乗り切れるかもしれない!)
「――ねえ、怜?」
「はっ!」
お母さんの声に、俺は思わず跳ね上がった。
気がつくと、車は近所のスーパーの駐車場に停車していた。お母さんが助手席の俺を不思議そうに覗き込んでいる。
「どうしたの? そんなに難しい顔して。お腹空いちゃった?」
「う、ううん! ちょっと明日のセリフのことを考えてて……」
「まぁ、熱心ねぇ。でも、あんまり根を詰めすぎちゃダメよ? そうだ、今日は頑張ったご褒美に、怜の好きなプリン買って帰ろうね。それと、喉にいいハチミツ大根も作ってあげる!」
「ハチミツ大根! わーい、お母さん大好き!」
両手を上げて喜んでみせる。
中身が男子学生だろうと関係ない。今の俺の身体は十歳の絵に書いたような美少女なのだ。プリンとハチミツ大根という最強の喉ケアアイテムを前にして、テンションが上がらないはずがない。胃袋と喉だけは、完全に十歳の子供に戻って「おいしいぃ……」と素で癒やされていた。
翌朝。
収録は午後から予定されているため、俺は午前中、ごく普通の「小学四年生」として学校に登校していた。
ガラガラと教室の引き戸を開けると、そこにはランドセルを背負った同級生たちが元気に走り回る、極めて平和でのどかな光景が広がっていた。
「あ、怜ちゃん、おはよう! 昨日さ、テレビでやってたアニメ見た?」
「おはよう、みんな。うん、見たよ! すごく面白かったよね」
にこにこと笑顔を振りまきながら、自分の席に座る。
周囲の友達が「あのアニメの合体シーンがかっこよかった」だの「宿題の算数が難しすぎた」だのと平和な会話を繰り広げる中、俺の脳内は完全に別の時空にいた。
(昨日……昨日、みんながテレビを見ていた時間、俺は自室の鏡の前で、前世の推しのブルーレイ第十五話を100回ループ再生しながら、軟口蓋の位置を1ミリ単位で微調整する『狂気の笑い方』の練習をしていたなんて、口が裂けても言えないな……)
この圧倒的な温度差。
周りは「宿題忘れたー!」と騒いでいる小学四年生なのに、俺が今日これから挑むのは「放送倫理ギリギリの、魂が壊れる絶望の演技」なのだ。あまりのギャップに目の前がクラクラしてきた
「白妙さん、これ、今日の宿題の漢字ドリルね。ちゃんとやってきた?」
担任の先生が、教壇から俺の席に歩み寄ってきて、優しく声をかけてくれた。
あ、やべ。
「は、はい! ちゃんとやってきました!」
慌ててランドセルから漢字ドリルを取り出して提出する。
ドリルを開くと、そこには『愛』や『唱』といった、小学四年生の可愛らしい漢字が、俺の拙い筆跡で並んでいる。
(……世界が滅びるレベルの絶望の演技を要求されている一方で、目の前の最優先タスクが『小四の漢字ドリル』なの、マジで情緒がおかしくなりそう。この温度差で風邪ひくわ)
とはいえ、義務教育は疎かにできない。前世の限界オタクとしてのプライドが、たとえ小学生の宿題であっても手は抜くなと囁いているのだ。
そして、待ちに待った(?)休み時間がやってきた。
俺は、静かに席を立つと、誰もいない中庭の隅、大きな桜の木の裏へと移動した。
(よし、ここなら誰も来ないはず。最後の仕上げ、やるか――)
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【作者より】
第五話をご覧いただきありがとうございました!
撮影スタジオの張り詰めた空気から一変、お母さんとの微笑ましい日常や、学校での漢字ドリルなど、十歳ならではののどかな日常をお届けしました。
しかし、今日これから挑むのは、声優すら恐れた伝説の没台本。
あまりの温度差にクラクラしながらも、怜は一人、誰もいない中庭で自主練を始めますが……!?
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