第4話 完璧なテイクと、想定外のおかわり
「本番いきます! カメラ回して!」
スタッフの鋭い声が広いスタジオに響き渡る。
それと同時に、天井近くにある赤いランプが静かに点灯した。スタジオの巨大な防音扉が完全にロックされ、そこは外界から遮断された「撮影現場」という名の聖域へと姿を変える。
しん、と静まり返る空気。
さっきまで忙しそうに走り回っていたスタッフたちも全員が動きを止め、固唾をのんでモニターを見つめている。
(うわぁ、このピンと張り詰めた空気……。さすがは本物の現場だな。でも、不思議と嫌な緊張じゃない。むしろ心臓の奥がどくどくと高鳴るのがわかる)
俺、白妙怜は、スタジオ中央に作られた廃墟の教会のセットに立っていた。
目の前には、ライバルであり親友でもあるキャラクターを演じる一条蓮ちゃん。
彼女はリハーサルで見せたツンとした表情から一変、今は自分が演じる「レン」という役に完全に同調し、鋭い気迫をその身から立ち上らせていた。
(蓮ちゃん、目がマジだ。リハーサルで俺が仕掛けた間合いに刺激されたのか、オーラがさっきの倍くらいになってる。やっぱりプロの子役はすげぇや……!)
「シーン三十四、本番! ……アクション!」
監督の乾いたカチンコ(撮影開始の合図)の音が、静寂を切り裂いた。
「おい、お前……! なんでそんな顔で僕を見るんだよ!」
蓮ちゃんの声が、廃墟の教会を模した美術セットの壁に跳ね返り、ビリビリと空気を震わせる。
リハーサルの時を遥かに超える、痛々しいほどの怒りと哀愁がこもったセリフ。
普通なら、十歳の子どもがこんな本気の気迫を正面から浴びたら、それだけで圧倒されて頭が真っ白になってしまうだろう。
だが、俺の脳内は違った。
(き、きたあああああーーーッ!!!)
内心で、俺のオタク魂がスタンディングオベーションを捧げていた。
(これだ! これだよ! 前世でブルーレイのコメンタリーを聴いた時、監督が『蓮役の子は本番テイクで急激にバケた。あの叫びは現場にいた全員の鳥肌を立たせた』って語ってた、あの伝説のテイクの再現だ! 生で! 目の前で! 超至近距離の特等席で浴びてる!!!)
興奮のあまり、脳汁がドバドバとあふれ出るのを感じる。
尊い。尊すぎて、このまま合掌して天を仰ぎたいくらいだ。
だが、ここでただのファンとしてへらへら笑うわけにはいかない。
もしここで俺が完璧な演技で返さなければ、蓮ちゃんのこの「奇跡の芝居」に泥を塗ることになってしまう。それはオタクとして万死に値する大罪だ。
(蓮ちゃん、君の全力を、俺が誰よりも綺麗な形で額縁に入れて保存してやる……!)
俺は、前世でそれこそ穴が開くほど見返した「アニメ第十五話」の、主人公の絶望シーンを脳内に召喚した。
スタジオの照明が作り出す青白い月光。
足元のバミリ(立ち位置のマーク)。
そして、カメラのレンズがこちらの表情を捉えるために、じりじりと横にスライドしていくわずかな作動音。
(ここだ。秒数は三、二、一……)
俺はゆっくりと顔を上げた。
リハーサルの時よりもさらに精度を上げ、自分の顔に落ちる「月光の影」の境界線が、ちょうど鼻筋を美しく二分する角度でピタリと動きを止める。
そして、前世で推し声優の声を擦り切れるほど聴き込み、自室で何百回と真似を繰り返してきたあのハスキーボイスを、十歳の奇跡の声帯で完璧に再現した。あの地道すぎるオタクの自主練が、今この瞬間のためにあったのだと言わんばかりに。
「……お前に、僕の何がわかるっていうんだ」
その声は、ただ悲しいだけではなかった。
諦め、拒絶、そしてほんのわずかに残された「甘え」が複雑に混ざり合った、あまりにも繊細で、しかし冷酷な一言。
正面に立つ蓮ちゃんが、びくりと肩を震わせた。
彼女の大きな瞳が、驚きに見開かれた。
俺の放った声と、そこから醸し出される「絶望の空気感」に、彼女自身が限界まで引き上げていた演技のさらに上を行かれたのだ。
だが、俺の役作り(完コピ)はこれだけでは終わらない。
(このセリフの直後、アニメの作画では、主人公のハイライトが消えた右目からだけ、すっと一筋の涙が零れるんだ。あの作画監督のこだわりが、このシーンを不朽の名作にしたんだよ……!)
俺は、自分の涙腺のコントロールに全神経を集中させた。
幸い、今の私の身体は天才子役としてのスペックを秘めている。前世の限界考察を脳内で再生し、主人公の孤独を心からシンパシー(同調)させた瞬間、右目だけにじわりと熱いものが溜まっていく。
そして、まさにその瞬間、カメラのフレームが私の顔に最も近づいた。
すっ、と。
右目からだけ、完璧な一筋の涙が頬を伝って流れ落ちた。
「……ッ!」
モニターを見ていたであろう監督やカメラマンたちの、息を呑む気配が遠くで聞こえたような気がした。
「――はい、カーーーーット!!! OK、OK、完璧だ!!!」
監督の、喉がち切れんばかりの絶叫がスタジオに響き渡った。
「素晴らしい! 素晴らしすぎる! なんだ今の演技は!?」
カットがかかった瞬間、スタジオ内はまるでお通夜から一転して奇跡を目撃したかのような、興奮と混沌の渦に包まれた。
「おい、見たか!? あの涙のタイミング! カメラが最も美しく捉えられる瞬間に、しかも片目からだけ綺麗に流したぞ!」
「指示なんて一言もしてないぞ……! それどころか、あの一条さんの最高潮の演技を真っ向から受け止めて、さらに上の熱量で返すなんて……!」
「十歳だぞ? 本当に十歳の子どものやることかよ……!」
周りのスタッフたちが、信じられないものを見るような目で俺を見つめ、何人かは感動のあまり本当に涙を拭っている。
(いや、違うんです。当時のアニメ誌のインタビューで『あの涙は右目から流すことで、まだ左側に残るかすかな光を表現したかった』って作監さんが語ってたから、それを肉体で再現しただけなんです。オタクのこだわりなんです、本当にすみません)
内心で冷や汗をだらだらと流しながら、俺は「ありがとうございました」と可愛らしくお辞儀をした。
ふと前を見ると、共演者の蓮ちゃんが、まだ呆然とした様子で立ち尽くしていた。
さっきまであんなにトゲトゲしていた彼女だが、今は頬を真っ赤に染め、カタカタと小さく震えている。
「……う、嘘。あんなの、勝てるわけないじゃない……」
蚊の鳴くような声で呟く蓮ちゃん。
どうやら、実力派子役としてのプライドを粉々に打ち砕いてしまったらしい。
(あ、あれ? 蓮ちゃん? ごめんね、大人げないオタクが本気出しちゃって……嫌われちゃったかな?)
俺が慌ててフォローしようと一歩踏み出した、その時だった。
「白妙さん!!! いや、怜ちゃん!!!」
すさまじい勢いで、監督がダッシュで俺のもとに駆け寄ってきた。その目は完全に血走り、興奮で肩を激しく上下させている。
「か、監督……?」
「驚いた。君は、ただの天才じゃない。作品の『魂』そのものと対話している怪物だ! ……そこでだ! 君の今の演技を見て、どうしても撮りたくなったシーンがある!」
嫌な予感が、俺の背筋を冷たく駆け抜けた。
「……撮りたくなったシーン、ですか?」
「そうだ! 実は、初期のプロット段階でカットされた『幻のシーン』があってね。絶望の淵で、心が壊れてしまった主人公が、泣くのを通り越して乾いた笑いを漏らす……狂気の独白シーンだ。あまりにも難易度が高すぎて、実写では無理だと諦めていたんだが……君ならできる!」
監督は、近くのスタッフからひったくった追加の台本(ペラ紙)を、俺の前に突き出してきた。
「急遽だけど、明日この追加シーンを撮影する! 台本はこれだ、しっかり読み込んでおいてくれ!」
俺は、渡されたその台本に書かれたセリフの文字列を目にした瞬間、文字通り心臓が止まるかと思った。
(――待て)
俺の脳裏に、前世の「恐ろしい裏設定」がフラッシュバックする。
(このシーン……前世のボイスドラマ版で一度だけ収録されたものの、当時の伝説的声優さんが『感情移入しすぎて過呼吸になり、収録中に気絶した』という曰く付きの没台本じゃん。アニメファンたちの間では、あまりの狂気に放送倫理を疑われてお蔵入りになったとまで囁かれていた、あの超・最難関の……!)
これを、十歳の、このか細い美少女の喉でやれと?
しかも、明日!?
「頼んだよ、怜ちゃん。君なら、僕たちの想像を超える『絶望』を見せてくれると信じているからね」
監督は、きらきらと輝く(狂気をはらんだ)期待の眼差しで俺の肩をポンと叩くと、嵐のように去っていった。
取り残された俺は、手元の追加台本を握りしめたまま、白目を剥きそうになっていた。
(嘘だろ……。これ、一歩間違えたら俺の精神がリアルに持っていかれるやつじゃん……!! どうするんだよ明日!?)
こうして、俺の「奇跡の天才子役」としての評価は、ついに引き返せないレベルまで限界突破してしまい――目の前には、前世のオタク知識すら脅かす、とんでもない大壁が立ち塞がっていた。
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【作者より】
第四話をご覧いただきありがとうございました!
リハーサルを超え、ついに本番で完璧な演技(※オタクの完全再現)を披露した怜。しかし監督の興奮が限界突破した結果、とんでもない無茶振りを引き当ててしまいました……!
声優すら恐れた伝説の「狂気の乾いた笑い」を、果たして怜はどう乗り切るのでしょうか!?
「この勘違いの展開、ハラハラする!」「蓮ちゃんが完全に圧倒されてて可愛い」など、感想をコメントいただけると次の執筆の大きな励みになります!
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