第6話 小学校で不審者(俺)が目撃されました
「すぅ……はぁ……」
中庭の大きな桜の木の裏。
まずは深呼吸をして、身体の余分な力を抜く。
そして、昨日ハチミツ大根で徹底的にケアし、プリンでコーティングされた完璧なコンディションの喉を意識する。
(よし、いくぞ。吐きながら、喉を開く。息を漏らすように……)
「……は、はは……っ」
かすれた、しかし背筋が凍るような冷たい音が、俺の喉から漏れ出た。
「ふ、ふふ……っ、お前、が……? あは、ははは……っ、は……!」
息を吸うタイミングを極限まで遅らせ、吐き出す空気の振動だけで、壊れた人形のような笑い声を紡ぎ出す。
これだ。喉への負担はほとんどない。なのに、客観的に聞けば、今にも過呼吸で倒れてしまいそうな、あまりにも痛々しい「狂気」がそこに完成しつつあった。
「よし、この感覚だ。これならいける、これなら喉を潰さずに――」
「あの……白妙さん?」
「ひゃいっ!?」
突然背後から声をかけられ、俺は生まれて初めて聞くような変な声を上げて飛び上がった。
心臓が口から飛び出るかと思った。
恐る恐る振り返ると、そこにはクラスメイトの女子、サクラちゃんが、見たこともないような怯えた表情で立ち尽くしていた。
その手には、半分に折られた自由帳が握られている。
「さ、サクラちゃん……? ど、どうしたの?」
「あの、ね……落とし物、届けようと思って。白妙さんの机の下に、このノートが落ちてたから……」
サクラちゃんが、おずおずと差し出してきた自由帳。
その開かれたページを見て、俺は文字通り凍りついた。
そこには、俺が授業中にこっそり書き殴っていたメモが、びっしりと並んでいたのだ。
『呼吸法:呼気圧のコントロール(喉頭蓋を下げない)』
『感情のフェーズ:初期衝動(驚愕)→自己否定(拒減)→虚無(笑い)』
『※過呼吸の擬似表現は、肺の残気量を20%以下に保つこと。脳への酸素供給を意識的に維持』
さらにその下には、前世の解剖図を思い出しながら描いた、人間の喉の内部構造(気管と声帯の図)が、小学生らしからぬ精密さでびっしりとスケッチされている。
(終わった……。完全に、小四の女子が持っていいノートじゃない。ヤバい宗教の魔導書か、暗殺者のバイブルにしか見えないぞこれ……!)
サクラちゃんは、真っ青な顔で一歩、後ずさりした。
「あのね、白妙さん……。さっき、桜の木の裏から、すっごく怖い笑い声が聞こえて……。白妙さん、もしかして……悪魔に取り憑かれちゃったの……?」
「ち、違うの! サクラちゃん、これはね!?」
俺は必死に頭を回転させた。
ここで「明日の本番の練習だよ」と言っても、普通の小四には「悪魔の儀式」にしか見えない。どうにかして、この状況をマイルドに誤魔化さなければ……!
「こ、これはね! あの……今度やる、劇の練習なの! ほら、悪い魔法使いの役をやるから、どうやったら怖く笑えるかなーって練習してて……! このノートの難しい図は、お母さんがお仕事の資料を写させてくれたの! かっこいいから真似しちゃっただけなんだよ!」
十歳児のキラキラした瞳(全力スマイル)をこれでもかと輝かせ、必死に言い訳をまくしたてる。
サクラちゃんは、俺のその「必死すぎる笑顔」と、手元の魔導書(自由帳)を何度も見比べ、やがて、ほっと胸をなでおろした。
「そ、そうなんだ……。びっくりしちゃった。白妙さん、本当に悪魔になっちゃったのかと思ったよ。習い事、大変なんだね……」
「あはは、心配かけてごめんね! 届けてくれてありがとう、サクラちゃん!」
ノートをひったくるように受け取り、なんとかその場を切り抜けた。
サクラちゃんが教室へ戻っていく背中を見送りながら、俺はその場にヘナヘナと座り込んだ。
(危ねぇ……! 危うく、小学校で『白妙怜は黒魔術に傾倒している』っていう噂が立つところだった。危なすぎる……!)
額の冷汗を拭いながら、俺は改めて手元の追加台本に目を落とした。
こんなところで消耗している場合ではない。
(よし、この感覚だ。これならいける。喉を潰さずに――あの、全てを失って狂う『絶望の笑い』を表現できる!)
いよいよ午後からは、あの狂気に満ちた監督と、実力派子役の蓮ちゃんが待つ、あの戦場へと戻らなければならないのだ。
(でも、技術的なシミュレーションは完璧だ。喉のケアもできている。あとは、現場の空気に飲まれずに、この『十歳児の肉体』に前世のオタクの狂気を宿すだけ……!)
キリ、と表情を引き締める。
白妙怜の「本当の限界突破」は、ここからが本番なのだ。
午後一時。
再び、撮影スタジオの重厚な扉の前に立っていた。
スタッフたちの忙しない声、飛び交う指示、機材が擦れる音。
昨日よりも、スタジオ内の空気はどこかピリピリと張り詰めているように感じられた。ブースの奥に見えるミキサー卓の大人たちも、どこか張り詰めた表情でこちらを凝視している。
それもそのはずだ。今日撮影されるのは、昨日の神演技を受けて、急遽追加された「曰く付きのシーン」なのだから。
「あ、怜ちゃん! 入りました!」
「よろしくお願いします!」
お辞儀をしながらスタジオへ入ると、すでにセットの中央には、蓮ちゃんが衣装を着て立っていた。
彼女は、俺が中に入ってきた瞬間、びくりと肩を揺らし、じっとこちらの様子を伺うように見つめてきた。
その目は、昨日俺に見せつけられた圧倒的な演技力に対する「畏怖」と、それでも負けたくないという「対抗心」で、らんらんと輝いている。
(蓮ちゃん、今日もいい目をしてるな。よし、待たせたね。大人げないオタクの、本当の限界突破を……特等席で見せてやるよ)
俺は、すっと息を整えながら、監督のもとへと歩み寄った。
「監督、準備できました。いつでもいけます」
俺のその迷いのない、凛とした立ち姿を見た監督は、ぞくりとしたように身震いし、そして、狂気すら感じさせる満面の笑みを浮かべた。
「素晴らしい。さあ、見せてくれ、怜ちゃん。君が表現する、本当の『絶望』を……!」
こうして、スタジオのランプが再び赤く灯り――声優界を震撼させた伝説の「没シーン」の撮影が、今、幕を開けようとしていた。
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【作者より】
第六話をご覧いただきありがとうございました!
学校での「魔導書(自由帳)誤魔化しコメディ」をなんとか乗り切り、ついにスタジオへ戻ってきた怜。
前世のオタク知識をフル稼働させて対策は練ったものの、これから挑むのはあの「曰く付きの狂気シーン」です。
現場の空気がピリピリと張り詰める中、いよいよ次回、怜の全力の「壊れた笑い」が披露されます……!
「サクラちゃんとのやり取りが可愛かった!」「いよいよ本番、どうなるかワクワクする」など、感想をコメントいただけると嬉しいです!
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