第2話 聖地入り。十歳の天才は、興奮でヨダレを堪える
「……というわけで白妙さん、いや、怜ちゃん! 満場一致で主演は君だ!」
とその場で言い渡された
オーディション会場の熱気が冷めないまま、長机に座っていたプロたちから直々に握手を求められた。十歳児の小さな手が、大人の大きな手に包まれる。
(うわぁ、マジかよ……。これ、前世で劇場版の制作決定ニュースを見たときより心臓に悪いわ)
内心で冷や汗を流しながらも、俺は「ありがとうございます! 精一杯がんばります!」と、頬を引きつらせながら笑顔を浮かべた。
廊下で待っていた母親に合格を伝えると、彼女は信じられないといった様子で目を見張り、次の瞬間には俺をきつく抱きしめて号泣した。
「怜……っ! あなた、お母さんに隠れてどれだけ過酷な練習を積んでいたの!?
あんな、人生のどん底を見たような絶望を演技できるなんて……ごめんね、お母さん何も気づいてあげられなくて……!」
(いや、部屋でアニメ見ながら『この声優さんの演技、神がかってんなぁ!』って
一人でブツブツ真似してただけです、本当にすみません)
大いなる誤解を抱えたまま、事態はハイスピードで動き出す。
何せ、元々は大物子役の降板によって急遽組まれたオーディションだったらしい。
スケジュールは文字通り「秒読み」だった。
自宅に帰ってからの数日間、我が家はちょっとしたお祭り騒ぎだった。まるで、突然我が家からオリンピック選手が誕生したかのような騒ぎっぷりだ。
「怜、今日の夕飯は脳にいい青魚よ。セリフを覚えるのも大変でしょうけど、無理はしないでね……!」
「あ、うん。ありがとう、お母さん」
過保護なほどに体調を気遣われる。
母親の目には、俺が「壮絶な過去を持つ主人公」の役作りのために、日々部屋にこもって精神を研ぎ澄ませているように見えているらしい。時折、何か偉大な芸術家でも見るかのような、きらきらとした尊敬の眼差しを向けてくるのが本当に気恥ずかしい。
(いや、部屋でやってるの、ただの『復習』なんだよなぁ……)
勉強机に向かい、配られた台本と、前世の記憶を照らし合わせる。
文字として書かれたセリフを読むたびに、脳内ではあの神アニメの映像と完璧なBGMが自動再生されていた。
「このセリフの裏側では、切ないバイオリンのソロが流れるんだよな」
「ここはアニメだと、茜色の空がゆっくりと深い紺色に染まっていくグラデーションの演出だった。ってことは……、演技のトーンも後半にかけて少しずつ落としたほうが映えるはず」
やってることは役作りではなく、ただの「限界オタクによる限界考察」である。しかし、前世で100回以上ループ再生した作品だ。監督がどのカットを重視してるのか、どこに力を入れたいのかが、手に取るように分かってしまう。
本気すぎる解釈と作品愛を研ぎ澄ませて、ついにその日がやってきた。
数日後、俺は早くも映画の撮影開始の日を迎えていた。
「ほら怜、忘れ物はない? ハンカチ持った? 緊張してない?」
「大丈夫だよ、お母さん」
お母さんに連れられてやってきたのは、業界でも大手の巨大な撮影スタジオだった。
高い防音壁に囲まれた建物の前に立つと、何台ものロケバスやトラックが行き交い、インカムをつけたスタッフたちが忙しそうに走り回っている。
テレビやネットの向こう側でしか見たことがなかった、本物の「芸能界」の景色。
普通なら、この圧倒的な空気感に気後れして、母親の服の裾を握りしめて縮こまるところだろう。
だが、俺の視線は別のところに釘付けだった。
(待って。あそこに停まってるトラックのロゴ……作中に登場する架空の企業『ヘリオス社』のマークじゃん! わざわざ車両のラッピングまで特注で作ったのかよ!?)
大人のプロたちが、本気で俺の「推し作品」の世界を作り上げようとしている。
その事実を目の当たりにした瞬間、緊張なんてどこかへ消し飛んだ。
(やべえ……。緊張どころか、テンション上がってヨダレ出そう……!)
「おはようございます! 本日からよろしくお願いします、白妙怜です!」
お母さんの後ろから一歩前に出た俺は、周囲の大人たちに向けて、本日一番の元気な声を響かせた。
その瞳は、緊張など微塵も感じさせない、期待と興奮でキラキラと輝いている。
すれ違うスタッフたちが「うわ、あの子が噂の……」「十歳なのに、あのスタジオの空気に全く呑まれてないぞ……」と、早くもザワつき始めるのを背中に感じながら、俺は一歩、本物の撮影現場へと足を踏み入れた。
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