第10話 隣に立つ資格
(あの『ヘリオス・コード』の撮影が終わってから、私の頭の中は、白妙怜のことでいっぱいだった)
一条蓮は、薄暗い自室の姿見の前で、荒い息を吐きながらモップの柄をマイクに見立てて何度もステップを踏んでいた。
額から流れ落ちる汗が、冷たい床板にぽつぽつとシミを作っていく。太ももの筋肉はすでに悲鳴を上げ、呼吸は浅く、喉の奥からは鉄の味がした。それでも、彼女の動きが止まることはなかった。
あの日の現場。怜が見せた、喉を掻き切るような凄絶な「私」の絶望の演技。
ただの生意気でお人好しな小学生だと思っていた少女が、カメラの前で本物の「怪物」に化けた瞬間、蓮のプライドは音を立てて粉々に砕け散ったのだ。
悔しくて、恐ろしくて、けれど――それ以上に、胸の奥の、役者としての魂が焼け付くように熱かった。
(あんな圧倒的な光の中にいる子の隣に、他の誰かが立つなんて、絶対に許せない。……隣に立つなら、私しかいないわ)
だからこそ、マネージャーから「新しくリニューアルされる『ポカリクス・スエット』のCM主演に白妙怜が直接指名された」と聞かされた時、蓮は生まれて初めて、自分からマネージャーの服の袖を必死に掴んで、プライドを投げ捨てて頭を下げたのだ。
『お願いです、そのCMの相棒枠のオーディション、私をねじ込んでください。……絶対に、白妙怜にふさわしい役者になってみせますから!』
端整な顔立ちで、普段はツンとすまして大人びている彼女の、剥き出しの執念。
事務所の大人たちは驚き、そのただならぬ気迫に圧されるようにして、なんとか滑り込みでオーディションの推薦枠を勝ち取ってくれた。
それからの数日間、蓮は寝る間も惜しんで練習を重ねた。
前世の記憶や大人の中身なんて都合のいい武器は、彼女にはない。今を必死に生きる十歳の少女である彼女にとって、それは自分の限界を何度も超え、泥を這いずり回るような、血の滲むような特訓の日々だった。
「まだ……まだ足りない。私の動きは、あの子の輝きに並び立てるほど、鋭くも、眩しくもない」
鏡の中の自分を睨みつけ、蓮は再び、激しいステップを踏み始めた。
―――――――――
そして、運命のオーディション当日。
「うわぁ……有名子役のバーゲンセールだなぁ……。テレビで見たことある子がゴロゴロいるよ……」
大手飲料メーカーの自社ビル内にある、だだっ広い控室の片隅。
俺――白妙怜は、周囲を漂うピリピリとした緊迫感に、完全にノックアウトされそうになっていた。
今回のCMに関して、俺はメーカー側からの直接指名(内定)をすでに貰っている。そのため、今日は選考を受ける側ではなく、最終審査の「掛け合いテスト相手」として、最初から審査員席の後ろで待機するように指示されていた。
ぶっちゃけ、オーディションを受ける側からすれば『合格決定済みの、鼻持ちならない勝ち組ポジション』なわけだ。
中身がただの男子学生オタクな俺としては、周囲のライバル心むき出しの美少女・子役たちから「あいつが例の……」と見定めるような眼差しを浴びるたびに、居心地が悪くなった
(すいません、すいません、別に偉そうにするつもりは一ミリもないんです……ただのテストのお手伝いなんです……)と、心の中でひたすら平謝りするしかない。
そんな、重苦しい空気が支配する控室の防音扉が開き、すっと背筋を伸ばして入ってきたのが、蓮ちゃんだった。
その目は、少し充血しているようにも見える。寝不足なのか、それとも限界まで神経を研ぎ澄ませてきたのか。
痛々しいほどの張り詰めた気迫をまとった彼女を見つけて、俺はたまらず自分の席から立ち上がり、小走りで駆け寄った。
「蓮ちゃん! 頑張ってね。私、ずっと蓮ちゃんのことを応援してるから!」
裏表のない笑顔と声で、本心からの精いっぱいのエールを送る。
だが、蓮ちゃんは俺の顔を見るなり、きつく拳を握りしめ、震える声で射抜くように鋭く言い放った。
「……お人好しな口を利くのは、今のうちよ。すぐに、あなたの隣を私の力で奪い取ってあげるから。……絶対に、他の誰にも渡さない。しっかり見てなさい」
(おおお、めちゃくちゃ気合入ってる……! さすが俺のパートナー、相変わらずツンケンしてて最高にカッコいいな!)
中身のオタクは大興奮で、脳内でブレード(ペンライト)を限界まで振り回したい気分だった。しかし、美少女・怜としては「う、うん……! 楽しみにしてるね」と、少し気圧されたフリをして可愛らしく健気に微笑み、審査員席の横へと戻った。
やがてオーディションが始まり、何人もの優秀な有名子役たちがテストに臨んでいった。
課題は、非常にシンプルでありながら、役者の本質を問うもの。
「二人で並んで走ってきて、息を乱しながら、冷たいスポーツ飲料のボトルを分け合う」という、アドリブ混じりの即興の掛け合いだ。
審査員の斜め後ろという特等席でそれを見ていた俺の脳内(男子学生オタク)は、冷淡に、しかし静かに首を横に振っていた。
(違う……。みんな、技術的には非の打ち所がないくらい上手い。顔の表情の作り方も、声の出し方も、まるで教科書通りに美しい。だけど、綺麗すぎるんだよ。お上品なお芝居は、このCMには求めてない。ポカリクスに必要なのは、部活帰りのあの泥臭さ、湧き出る汗の匂い、なりふり構わず全力で“今”という瞬間を駆け抜ける『リアルな青い春』なんだ……!)
綺麗にまとまった優等生的な演技を見送るたび、審査員席の大人たちの顔にも、どこか物足りなさそうな影が浮かんでいる。誰もが「これじゃない」と、心のどこかで叫んでいるのが、その椅子の背もたれに深く預けられた姿勢から伝わってきた。
そしてついに、スピーカーから張り詰めた声が響く。
「エントリーナンバー十二番、一条蓮さん。テスト相手、白妙怜さん、前へ」
ついに呼ばれた。
ステージの上に、俺と蓮ちゃんが並び立つ。
ステージを照らす強烈なスポットライト。その光の中で、ふと隣の蓮ちゃんに視線をやると、彼女の小さな肩が、かすかに、けれど小刻みに震えているのが分かった。
いくら普段は強気で、プライドが高くても、彼女はまだ十歳の女の子なのだ。この重圧に押し潰されそうになっている。
(……大丈夫。蓮ちゃんなら、絶対にできるよ)
俺は一歩、彼女の方へ寄り添うように立ち位置を調整した。
「それでは、スタート」
監督の短い合図が静まり返った会場に響いた。
その瞬間、俺はステージの端から、全速力で「走り出した」。
ただ走るポーズをするんじゃない。前世で、部活帰りに泥だらけになりながら、自動販売機へ走ったあの夏の日の記憶。テレビの画面越しに何度も見て憧れた、青空の下を疾走するヒロインたちの躍動感。
そのすべてを脳裏に描き、本気で床を蹴り、ポニーテールを激しく風になびかせながら、蓮ちゃんの元へと駆けていく。
「はっ、はぁ……っ! 蓮ちゃん!」
本気の疾走。喉の奥から絞り出される、乱れた呼吸。
圧倒的な「生の熱量」がステージの空気を一瞬で支配した瞬間、蓮ちゃんの瞳の色が、ガラリと変わった。
彼女を縛り付けていた緊張という鎖が消え去り、飢えた猛獣のような、そして純粋な「役者」の目が宿る。
「――っ、遅い。待ちくたびれたわよ!」
蓮ちゃんが、台本には書かれていない鋭いアドリブを交えて、俺の肩をぐっと引き寄せた。
その手のひらは、冷や汗とは違う、体温の上がった熱い汗で湿っていて、最高に温かかった。
俺は本気で喉を鳴らして笑い、持っていたダミーのボトルを、彼女の頬に「冷たっ!」といたずらっぽく押し当てるようにして差し出した。
「お待たせ! はい、半分こ!」
「あ……冷たい、バカ!」
びっくりして頬をすぼめた蓮ちゃんが、次の瞬間、顔をほころばせて笑った。
「――ふふ、ありがと」
お互いの荒い息遣いが重なり、ライトを浴びた肌できらめく汗。
飾らない、取り繕わない、ありのままの十代の熱。
二人の間に生まれたその空間は、作られた虚構の演技などではなく、青空の下で全力で生きる少女たちの、本物の青春そのものだった。
二人の笑い声が、スタジオの天井へと抜けていくように爽やかに響き渡る。
「……っ」
審査員席の大人たちが、全員身を乗り出し、息を呑むのが、ステージの上からでもはっきりと分かった。
これだ。これこそが、彼らが求めていた「リニューアルされたポカリクス・スエット」の絵コンテそのもの、いや、それを遥かに凌駕する奇跡の瞬間だった。
演技終了を告げるブザーが鳴っても、誰も声を上げず、ただ二人の少女のきらめきに魅了されていた。
静まり返る会場の中で、蓮ちゃんは肩を揺らして荒い息をつきながら、まっすぐに俺を見つめていた。その瞳には、「どう? 私はあなたの隣に立てている?」という、誇らしげな、そして確信に満ちた強い光が宿っていた。
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【作者より】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
蓮ちゃんの泥臭い努力と、怜の熱い演技の掛け合い……伝わっていたら嬉しいです!
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