第4章・第1話 スグカエレ
雨が降り頻る6月22日。
僕が算術の問題に頭を悩ませていると、教室に事務のおばさんがやってきた。
「斎藤さん、おうちから電報です」
小さくそっと言うと、机の端に紙切れを置いていくではないか。
紙には『スグカエレ』、とだけある。
電報は濁点・半濁点、記号も含め一文字毎に値段が高くなるから、短い言い回しが広く知れている。
これだと『チチキトク スグカエレ』(父危篤、直ぐ帰れ)が決まり言葉だが、誰がとは書いていない。僕の父は既に居ないし、母も体は弱いがそこまで年は取っていない。すると市川の祖母だろうか。それだと文字数が多いから省いたのだろう。
僕は受け持ちの教師に電報を見せ、汽車へと乗った。
昼下がりの汽車は締まりの抜けた空気が漂い、窓の外は雨雲のせいで明けが暮れかもわからない。
いつもは外に出歩かない時間、何が起こったか分からない不安、それらが混ざり合って頭を預けている窓枠に沈み込みそうになる。
矢切に帰り着き、宵闇の掛かる家を見上げて見たが、特に変わったことはない。
台所を覗いてみても、母が見えないばかり。ただ、誰も話をする者はなく、箸と茶碗がチャキチャカ擦れる音だけが響いていた。
僕は台所の者に声を掛けず、真っ直ぐに母の寝処へと向かう。
奥の間は行燈の灯も薄暗く、母はひったりと枕を就けて臥せていた。
「お母さん、どうかしましたか」
僕が声を掛けると、母はふっと目を覚まし、震える唇で言葉を紡ぐ。
「政夫、堪忍してくれ……」
「な、何をです?」
いつもより弱気な母に、僕は狼狽えてしまう。
そんな僕に、母は縋るように、許しを請うように言う。
「私が殺した様なものだ……」
物々しい言葉に、僕は喉を詰まらせた。
誰をですと聞くところであったが、後から考えればそれは分かっていただろう。
母は息も絶え絶え、絞り出すようにその名を告げる。
「民子は、……死んでしまった」
僕の頭は眠気に襲われたように、ぴたっと止まる。いっそこのまま眠ってしまいたかった。瞼が重たくなり、上心が波のように引いていく。
すると残された砂浜に文字が残る。何があったのか、と。
頭を覆っていた霞はさっと晴れ、僕は屹っと母を見据えた。
「そりゃいつです? どうして民さんは死んだんですか⁉」
「うぅぅ、許しておくれ。この通り……」
僕は心の底に残った疑問に衝き動かされて母を問い質すが、母は咽び返えり顔を抑えて居る。
いくら聞いても母は布団に蹲るばかり。
僕はじれったくなって、母の肩に手を伸ばす。
「どうしたんで――」
「そこまでにしときィ」
僕の手は母に届かず、肩を強く握られた。
振り返ると兄と兄嫁が立っていて、兄が僕を押し留めて居る。
兄は僕の顔を見るなり、眉間に皺を寄せて顔を逸らした。余っ程非道い顔をしていたらしい。
「お義母さん、まアそう泣いたって仕方がない」
無口な兄の代わりに、さっき声を掛けてきた兄嫁が母を窘めた。
が、母はこれに構わず、「泣かしておくれ、泣かしておくれ」と言うのである、どうしようもない。
僕は横槍を入れてきた兄嫁に、むすっとして言う。
「私は母に聞きたいのです」
「そうはいかないよ。これは私も背負う咎だから……」
梅雨の合間、しめやかな夜、兄嫁はその闇に溶け馴染むように語り始めた。




