第3章・第3話 乗り合いの小舟
「明日が待ちどおかっぺ。民さん」
兄嫁さんが粘りつくように言うと、民子さんの顔には黒い雲が立ち込めた。
それを見ると私の心も、微かに酸いような、土の香りに包まれる。
その日は政夫さんが帰ってくる一と日前、12月24日。
半月前から持ち直して近頃はよくなってたのに、ここに来て兄嫁さんからの心なき言葉。
政夫さんが居なくなってからの一と月、民子さんは泣きの涙で暮らす日々でした。
初めは私に隠している積りでも、まるで筒抜け。
今年は政夫さんがいないだけ稲刈りで人手が欲しいからと、民子さんは暮れまで市川に帰らず、この家に泊まり込みだったんです。
それがとうとう耐え切れなくなって、皆が寝静ずまった宵凝り、私の部屋にやってきました。硯と筆を持って。
「お増……」
「もう夜も遅いですよ」
私も寝ようかと思っていたので、つい棘が出てしまいました。
民子さんの泣き顔には気付いていましたが、私の出る幕じゃないと見れ見ぬ振りをしたんです。
民子さんは口をもごもごするものの、暫くすると帰っていきました。
ですがそれは三晩続き、堪え切れなくなった堤から水が滴るように言うんです。
「お増、文字は書けませぬか?」
「ああ、いえ……、書けません」
「そうですよね。手紙を書きたくて」
「手紙ですか……、それなら送り先は?」
民子さんは力なく、頭を振りました。
硯と筆を持っていたのは、政夫さんに手紙を書きたいから。
とはいえ民子さんも私も学が無く、お義母さんも送り先を教えてくれないでしょう。
民子さんは俯いたまま温い雨を降らすので、私も寝るどころではなくなります。
それどころか悲しみが、目尻に溜まり始めました。
「手紙を出せずとも、暮れになれば逢えます」
そう励ますと民子さんは力なく頷き、その夜は床に帰っていきました。
それから夜毎部屋にやってくるので、私と民子さんは同じ舟に乗った積りで身を寄せ合い、揺れが凪ぐのを待ったんです。
明日になれば政夫さんと逢える。
そう願っていた民子さんにとって、兄嫁さんが何気なく放った小石は大岩のよう。
か細い望みを繋いでいた民子さんは、一と堪りもありません。
舟はひっくり返り、民子さんは人の目も憚らず、大泣きをしてしまいました。
お義母さんも余りのことに呆れて、仕事にならないからと市川に帰してしまったんです。
「政夫さんが一昨日来たら逢われたんですよ」
「そうだったのですか……」
「政夫さん、私はお民さんが可哀相で可哀相でならないだよ」
見ればお増は話した傍から、もうぽろぽろ涙を零している。
お増は極めて人の好い親切な女だ。
僕と民子さんが一緒にいるところを見ると、忽ち突っ掛かってくるけど、もとより根深く僻む人でない。
なので僕が一人になれば何事もなく話してくれるし、民子さんといれば毛嫌いもせず接してくれる。
僕から聞かなければ、民子さんのことは母も兄嫁も話してくれなかっただろうし、こうして話してくれたお増の優しさは身に染みる。
それと同じくして民子さんの胸の内を偲ぶと、再び熱い涙が漲り出して止められない。
お増はやることがあるからと台所へと帰っていったけども、僕は涙の出るがまま、藁の上でぼんやりして座っていた。
その日は終に朝飯も食べず、昼過ぎまで畑の辺りを彷徨いてしまう。
胸が苦しく、家に居るのが厭でたまらない。出来るならば年が明ける前にでも学校へ戻ってしまいたかったけれど、そうするとまた、民子さんに逢えなかったからと勘繰られてしまう。
僕は味のしない雑煮を流し込み、二日の朝早くに学校へ発ってしまった。




