第3章・第1話 二人の別れ、矢切の渡し
小雨の降る17日の朝、僕は鞄を一つ持って、矢切の渡しへと降りた。
舟で川を下って、市川へ出るつもりだから。
前髪に吹く風、ほっそりと湿った空気が両頬を包む。
民子さんとお増がお見送りに来てくれたが、ゆっくりとしてられない。
僕は村の者が荷を積んだ船に便乗する訣で、もう舟は来て居る。
僕は「民さんそれじゃ……」と言うつもりでも、喉が詰まって声が出ない。民子さんは僕に包みを渡してからは、手のやりばに困って胸を撫でたり襟に手を添えたりして、下ばかり向いている。眼に溢れる涙をお増に見られまいとして、体を脇へ逸らしているではないか。
その哀れな姿を見ては、僕も涙が抑え切れなかった。
民子さんは今日を別れと思ってか、髪はさっぱりとした銀杏返しに薄く化粧をしている。煤色と紺の縞を縦横に並べた細かい弁慶縞で、羽織も長着も同じ紅花を用いた米沢紬ぎ。その上から光る絹を細かな模様で染めた、品のよい友禅縮緬の帯を締めていた。襷を掛けた民子さんもよかったけれど、今日の民子さんはまた一層引き立って見えた。
僕の気のせいであるのか、民子さんは十三日の夜から日に日に窶れてきて、今は病を患っているように痛々しい。
この時の辛さ悲しさは、他人に話してもとても分かってもらえないだろう。
余所から見たならば、生煮えの心幼い内によくある、悪戯勝手な泣面と見苦しくも見えよう。けれど二人の身に取っては、真に悲しき別れであったのだ。
尤も民子さんの思いは僕より深かったに違いない。民子さんは17で、今年の内に縁談の話もあって両親からそう言われれば、無造作に拒むことの出来ない身。行く末を慮れば悩みは尽きない。
僕はその話を母からも聞いていなかったけれど、親しく目に染みた民子さんの痛々しい姿は幾年経っても、昨日のことのように眼に浮んでくるのである。
そして僕ら二人は互いに手を取って後先を語ることも叶わず、小雨のしょぼしょぼ降る渡し場で、泣きの涙も人目を憚り、一言も交わし得ないで別れてしまう。
舟に乗るため桟橋を歩くが、どこか心許なく、いつもより軋む音が大きいように思われる。
船頭はのっそりとした動きで括り縄を外し、船は陸にさよならを告げた。
川の流れは情けを知らず、十分と経たぬ内に、五町(500メートル)と下らぬ内に、お互いの姿は雨の曇りに隔てられてしまった。
ものも言い得ないで、悄然と萎れていた不憫な民さんの面影、どうして忘れることが出来よう。
後から考えれば、あアもしたらこうもしたらと思わぬこともなかったけれど、青い僕ら二人には何の工夫も無かったのである。妻戸一枚を忍んで開けるほどの知恵も出なかったのである。
それほどに無邪気で可憐な恋でありながら、尚親に怖じ、兄弟に憚り。他人の前では涙も拭き得なかったのは、如何に気の弱い二人であったろう。
僕は学校へ行ってからも、とかく民子のことばかり思われて仕方がない。
こんなことを考えてはどうしようもないと、自分で自分を叱り励まして見ても何の甲斐もない。そう思った言葉の尻からすぐ民子さんが湧いてくる。
人の多い中に居ればどうにか紛れるので、日の中はなるたけ一人にならない様に心掛けた。夜になっても頭が冴えていると仕方がないから、なるたけ人中で騒いで疲れてから布団に潜る。
そうやって自分を凌いで二た月。
ようやく年も暮れ、冬期休業になった。




