第2章・第6話 母の過ち
暮れ始めは瞬きの間に。
秋の日足の短さ、日は漸く傾き染める。
僕ら二人は、こんな埒もなき事を言って悦んでいたが、綿捥ぎは終わっていない。
「さア」との掛声で仕事に戻り、午後の分は僅かであったから、一時間半ばかりで捥ぎ終えた。
僕は民子さんと二人で、綿を入れた天秤籠を担ぎ、とぼとぼ畑を出る。
その時には辺りを揺蕩っていた暖かさは失せ、日は早くも松の梢に陰りをかけた。
帰り道の西手には、一段低い畑が広がっている。今朝は気がつかなかったが、その畑には蕎麦の花が咲いていて、まるで薄絹を曳き渡したように白かった。
十三夜の月が顔を見せたのは、道の半ばも来たと思う頃。木の間から淋しそうな影を差し入れ、照らすは生い茂る尾花の穂。その薄を揺す風もなく、暗闇が露をそっと置く手さえ見える様な、そんな夜であった。こおろぎが寒気に鳴く声さえも、心留めずにはいられない。
「民さん、草臥れたでしょう。どうせ遅くなったんですから、この景色のよい処で少し休んで行きましょう」
「こんなに遅くなるなら、今少し急げばよかったに。きっと家の人達に何か言われる。政夫さん、私はそれが心配だわ」
「今更心配しても追っつかないから、まア少し休みましょう。そんな、人に申し開き出来ない様なことはしてないもの。民さん、心配することはないよ」
渋る民子さんであったが、僕が道端の切り株に腰を掛けると、嫌々ながらも隣に座ってくれた。詰まる所、民子さんも家には帰りたくなかったのだ。
切り株には月明かりが斜めに差し込み、それが松だと分かるくらいには明るい。目の前には木の蔭で薄暗い畑があるが、向うには月が絵描きのように佇み、蕎麦の花を白く際わ立たせていた。
「何という、良い景色でしょう。政夫さん詩とか俳句とかいうものをやったら、こんなときに面白いことが言えるでしょうね」
「僕は実は少しやっているけど、難しくて容易に出来ないのさ。民さん、これから二人で詩をやりましょうか」
「そうですねぇ。私らの様な無筆でも、こんな時には心配も何も忘れますものを……」
お互いに一つの心配を持つ身となった僕らは、内に思うことが多く、却って話が少ない。とはいえ何となく覚束ない二人の行く末、ここで一寸でも長く話をしたかったのだ。
僕は勿論、民子さんも話したかったに違いないが、年の至らぬのと浮いた心のない二人は、なかなか差し向いでそんな話は出来ない。しばらくは無言でぼんやり時間を過ごすうちに、一列の雁が二人を促すかの様に近くを鳴いて通る。
ようやく田圃へ降りて銀杏の木が見えた時に、二人はまた同じ様に一種の感情が胸に湧いた。それは他でもない、何となく家に這入りづらいと言う心持である。
這入れない訣ではないと思っても、どうしても這入り辛い。躊躇っている暇もなく、忽ち門前まで来てしまった。
「政夫さん……あなた先になって下さい。私決まり悪くてしょうがないわ」
「よしと、それじゃ僕が先になろう」
僕は勇気を奮い立たせ、殊に平気な風を装って門を這入った。
家の人達は今夕飯の最中で、何の話か分からないが、盛んに話が湧いているらしい。庭場の雨戸は未だ開いたままで、月が軒口までさし込んでいる。
僕が咳払いを一つやって庭場へ這入ると、台所の話はぴたっと止んでしまった。
民子は指の先で僕の肩を撞いた。僕にも分かる、今盛り上がっていた話の種は二人の噂だと……。
宵祭りであり十三夜でもあるので、家の者が表座敷へ揃うた時、母も奥から起きてきた。
「遅かったじゃないか」
母の言葉は強い響きではなかったが、深いところに咎める味があった。
兄嫁は僕ら二人を疑いの目で見ている。
母は僕ら二人を、飽くまでも子どもだからと庇ってくれた。けれど人気のない山の畑で二人っきり。しかも日が暮れるまで帰ってこないとなれば、家の者にも村の者にも、示しが着かないのだろう。
「いやぁ、こんなに成っているものだから、つい……」
僕は山から採ってきた、木通と野葡萄座敷中へ並べ立てた。暗に
僕がこんな事をして居たから遅くなったのだと、無言の弁解をやる。
けれど、みんな僕のことなんか見ちゃくれない。
「お母さんは甘過ぎる。あんな二人を山畑へやるとは、目のないにも程があるでしょう」
「「そうですよ!」」
兄嫁は母に抗議し、周りもそれに乗っかる。
民子さんはいよいよ小さくなって、座敷の外に立ったまま。
ついに母が場を収めるために、誤りを認めた。
「いつまで子どもと思っていたが……自分の見立てが悪かった」
こうして僕ら二人は、間違いを犯したと決めつけられた。
母は続けて、僕を見て言う。
「政や、お前は11月へ入って直ぐ学校へやる積りであったけれど、そうしてぶらぶらして居ても為にならない。お祭りが終ったら、もう学校へ行くがよいナ。17日に行くとしろ……えいか、その積りで小支度して置け」
学校へ行くのは元より僕の願い。半月早くとも大きな差はないが、今夜言われると話は違う。囲炉裏の煙で噎せたのか、胸が痛む。
僕ら二人は、親に顔向けできぬようなことはしてない。けれど言い返すに足る、事柄も資格も持ち合わせていなかったのだ。
一と月前なら駄々を言えただろう、だが今夜はそんな我が儘を言えるほど無邪気ではない。
全くの処、恋に陥ってしまっている。
「はア……」と答えた限り、僕は何も言えず、母の言いつけに従う他はなかった。
僕は渋々頷いたが、一つ大きなことを忘れていた。
僕は学校へ行ってしまえばそれでよいけど、民さんは後でどうなるのだろうか。
そう思って、そっと民子の方を見ると、お増が枝豆を漁っている脇で、民子は俯いて膝の上に襷を捏ね繰りつつ黙っている。夜のせいか顔色も青白く見え、そんな従姉の姿に、に僕も俄かに泣きたくなった。涙は瞼を潤して眼が曇る。
民子さんと僕との楽しい関係もこの日の夜までは続かなく、13日の昼の光と共に消え失せてしまった。嬉しいにつけても思いの丈は語れず、憂さ悲しいことについても口にできないで、二人の関係は闇の帳がに掛けられてしまったのである。
そこから僕は抜け殻になった。
14日は祭りの初日でただ物忙しく日がくれた。お互に気のない風はしていても、手を動かす仕事のあるばかりに、とにかく心紛らすことが出来た。
15日と16日とは、食事の他用事もないままに、書室へ籠こもり通し。ぼんやり机に凭れたなり何をするでもなく、ただ民子さんのことが頭に充ちているばかり。
この2日の間に民子と3・4回は逢ったけれど、話も出来ず微笑みを交わす元気もなく、心淋しい心持ちを互いに目に訴えうるのみであった。
それでも僕は16日の午後になって、何とはなしに手紙へ書いて、日暮れに一寸来た民子さんに僕が居なくなってから見てくれ、と言って渡す。
手紙には僕は民子さんのことばかり考えていると、正直に書いた。今更伝えても遅いかもしれないのに……。
そして母に言われた通り明日に発つと、それも朝一番に出ると。
学校へ行くとはいえ、追い出されたようであるから、人の笑い声・話し声にも一つ一つに僻み心が起きる。皆僕らを嘲笑うかの様に聞かれる。だからいっそ早く学校へ行ってしまいたくなった。腹が決まれば元気も戻ってくる。この夜からは頭も少しく冴え、夕飯も心持よくたべた。学校のこと何くれとなく母と話をする。
やがて寝に就いてからも、
「何だ馬鹿馬鹿しい、15そこらの小僧の癖に、女のことなどばかりくよくよ考えて……そうだそうだ、日の出と共に村を出るんだ。民さんは可哀相だけれど……もう考えまい。考えたって仕方がない。学校学校……」
独り口を利きつつ、僕は眠りに落ちた。




