第2章・第5話 竜胆の花
かさかさ、ちょろちょろ。
笹を踏む音に、水の滴る音が混じる。
茂みが晴れたかと思うと、崖に寄り添う岩があった。
岩は苔生し、崖との継ぎ目から清水が溢れ、細やかな流れを作っている。
湿った苔は滑って危ない。
僕は握っていた民子さんの手を泣く泣く離し、民子さんに向き合う。
「民子さん、ここまで来れば、清水はあすこに見えます。これから僕が行って来ますからここに待っててください。僕が見えていたら居られるでしょう?」
「これより政夫さんの御厄介になるのものねぇ……そんなに駄々を言っては済まないから、ここで待ちましょう」
僕は苔で滑らないように、足を小さく進めて岩に近づく。そして腰に結わえておいた水筒に清水を汲んだ。
水筒を再び腰に吊るす時に足下を見遣ると、茂みに実っていたのは木通と野葡萄。
木通は山に生える果物で、熟れると細長い実が縦に割れる。真ん中にある種の周りを、柘榴のように食べられるのだ。
野葡萄は実の並び方が疎らな葡萄。
何れも食べ辛かったり酸っぱかったりと、人の手で育てた果物には一つ劣るが、それらはおいそれと食べられるものでもない。だからこうして山で見つけた時は、有難く頂いている。
僕は木通を4~50と野葡萄を一と盛闋採り、民子さんを連れて綿畑へと帰ることにした。
帰りは下りだから気兼ね無く下りられるのはいいけれど、木通やらが手を塞いでもどかしい。
畑に入る前、僕は長細い葉が沢山茂ってのを見つけた。
ああ、あれは……。
「民さん、僕は一寸『アックリ』を掘ってゆくから、この木通と野葡萄とを持って行って下さい」
僕は持っていたお八つを民子さんに預け、落ちていた枝を拾い、根の周りの土を掻き出す。
民子さんは不思議そうに僕の手元を覗き込んだ。
「『アックリ』て何ィ? あらア、春蘭じゃありませんか」
「民さんは町場者ですから、春蘭などと品のよいこと仰るのです。矢切の百姓なんぞは『アックリ』と申しましてね、ハハハハ」
「あらア口の悪いこと。政夫さんは、今日は本当に口が悪くなったよ」
民子さんの言い方が可笑しくて、僕はカラカラと笑った。
土を粗方除けると、白い根が出てくる。それを引き抜いて近くにあった木の幹に軽く当てて、土を叩き落とす。
落ちた土が足に掛かるし、手も少し汚れる。こんなことなら清水に行く前に見つければ良かったけど、民子さんの手が汚れなくて良かったと思うことにした。
僕らは畑に戻り、綿の中に隠しておいた弁当を引き抜き、代わりに春蘭の根を入れた。
弁当と云えば、山の楽しみの一つ。山の仕事をした後に食べる弁当は、何故だか知らんがうまい。
今僕らは新しき清水で、母の心を籠った弁当を分けつつ食べている。でも作ってくれたのは……。
僕は木通を好み、民子さんは野葡萄を食べつつしばらく話をする。
「春蘭なんか掘ってどうするのですか?」
「薬に致します。皸の」
春蘭の根はすり潰して傷口に塗ると、血の流れが良くなって傷が治りやすくなる。乾かして取っておけるから、いくらあっても困ることはないだろう。
民子さんは控えめに笑いながら、僕に言う。
「政夫さんは皸の薬に『アックリ』とやらを採ってきて、学校へお持ちになるの? 学校で指が切れたらおかしいでしょうね」
水仕事や、野良で土をいじることもなければ、皸は出来ない。
筆を握るだけで指の皮が切れたら、それは可笑しいだろけど……。
「なアにこれはお増にやるのさ。お増はもうとうに皸を切らしている。この間も湯に這入る時にお増が火を焚たきにきて非常に手の荒れを痛がっているから、その内に僕が山へ行ったら『アックリ』を採ってきてやると言ったのさ」
「まアあなたは親切な人ですことね……。お増は蔭日向のない女ですから、私も仲良くしていたんですが、この頃は何となし私に突っかかる事ばかし言うもので……。あれはわたしを憎んでいますよ」
「アハハハ、それはお増どんからすれば民さんは羨ましい限りでしょう。人の心はすぐ裏返る。僕がそら『アックリ』を採って帰ってお増にやると言えば、民さんがすぐに、まアあなたは親切な人とか何とか言うのと同じ訣さ」
「この人はいつのまにやら、こんな口が悪くなったのでしょう。何を言っても政夫さんには敵いやしない。いくら私だってお増には同情しますよ……」
民子さんは、食べ終わった弁当を包んでいた竹の皮に目を落とす。
おかずを選んでくれたのは母だが、それを拵えてくれたのはお増なのだ。
「お増も不憫な女よ。両親があんなことになりさえせねば、奉公人とまでなるのではなかろうに」
「そうですね。お父様は戦争で散り、お袋さんはこれを嘆いたが元で、病に倒れましたし」
「残る兄も外れ者という訣で、とうとうあの始末。国のために死んだ人の娘だもの。民さん、労わってやらならないとね」
「そりゃ政夫さん、私もそう思って居ますさ。お母さんもよくそう仰います」
「あれでも裏では民さん、あなたをば大変ほめているよ。意地曲りの兄嫁にこき使われるのだから、一層かわいそうでさ」
「そうは見えませんけどね……。腹は立ちますが、道理とは何とか分けてやってますよ。でも政夫さんの様に、情深くされると……」
民子さんはそこで言い止して、また話を詰まらした。
僕が如何したと訝しんでいると、民子さんは僕の前を横切って、ふらふらと茂みに歩み寄る。そして青紫の花をいくつか手に採って、僕の元へ戻ってきた。
「こんな美しい花、いつの間に咲いていたのでしょう?」
急に話を転じた民子さんに、僕は困惑してつまらない返しをしてしまう。
それが後になって、当たり前ではなくなることにも気づかずに……。
「先刻からずっと咲いていましたよ。そんな珍しいものでもないでしょうに……、竜胆の花なんて」
「そう、竜胆。竜胆は本当に良い花ですね。私竜胆がこんなに美しいとは知らなかったわ」
そう呟いた民子さんは、小さな青紫の花々を慈しむように胸元に寄せた。
「わたし急に竜胆が好きになった」
民子さんは花が好きで、気に入った花を持つとその花弁に顔を埋めるのだ。
ここでもいつもの癖で、色白の顔にその紫紺の花を押しつける。やがて何を思い出してか独りでに、にこにこ笑うではないか。
「民さん、何です? そんな独りで笑って」
僕も可笑しくなって、釣られて笑いそうになる。
しかし僕の心臓は、民子さんの言葉でびくっと跳ね上がった。
「政夫さんは竜胆の様な人だ」
そんなことを急に言われたものだから、僕は狼狽えてしまう。
随分長い間、何も言えなかったかもしれないけど、それは一瞬だったか。
僕はやっとの思いで言葉を捻りだす。
「どうして」
「さアどうしてということはないけど、政夫さんは何がなし竜胆の様な風だからさ」
民子さんはそう言い終わって、顔を隠して笑った。
僕は体がかっと熱くなって、恐らく赤くなっているだろう頬を、人指し指で掻きながら言う。
「民さんもよっぽど人が悪くなった。それでさっきの仇討ちという訣ですか。口真似なんか恐れ入りますナ」
僕なんかはそれだけ言うと、黙り込んでしまった。
といってもそれは民子さんも同じだったみたいで、先刻から顔を隠したまま。
二人の体は向かい合っているのに、何も言えなくて黙り込んでしまう。
そのうち、夏の日差しを浴びていた体の熱がじんわりと体に馴染んで、春のそよ風に吹かれたように気持ち良くなってくる。
民子さんも落ち着いたらしく、顔を見せてくれた。その頬はほんのりと赤く染まっている。
僕は先ほどのまでのように追い詰められてではなく、口元に緩ませて民子さんに言う。
「しかし民さんが野菊で僕が竜胆とは……、面白い対ですね。僕は悦んで竜胆になります。それで民さんが竜胆を好きになってくれれば尚嬉しい」
「勿論です。政夫さんも野菊のことを忘れないでくださいね」
そう言って民子さんは莞爾と僕に微笑んだ。
その笑顔を僕は、今でも忘れられない。




