第2章・第4話 極楽の闖入者
「ほんとに民子さん、今日という日は極楽の様な日ですねイ」
僕が民子さんに話しかけながら振り向くと、民子さんは顔の汗を拭っている。
汗の跡がつやつやと輝いて、僕は今更ながら民子さんの横顔に見惚れてしまった。
「そうですねイ、わたし何だか夢の様な気がするの」
「夢ですか?」
「そうよ。今朝家を出る時は本当にきまりが悪くて……兄嫁さんには変な眼つきで視られる、お増には冷かされる。風邪にうなされているみたいで……」
遠い目をしていた民子さんは、僕を見据える。
「それなのに政夫さんは平気でいるから憎らしかったわ」
「僕だって平気なもんですか。村の奴らに会うのがいやだから、僕は一足先に出て銀杏の下で民子さんを待っていたんでさア」
僕だって息苦しいときもある。
兄嫁も女中達も、村の皆んなも、眼差しの槍で僕らを狙っているようで。
「それはそうと、民子さん、今日は心残りがないようにしよう。来月には僕は学校へ行くんだし、今月とて15日しかないし……」
「そりゃア政夫さん、私は道々そればかり考えて来ました。私がさっき情けなくなってと言ったら、政夫さんは笑っておしまいなしたけど……」
ぼくから話を振っても、直ぐに行き詰まってしまう。
民子さんは事有る毎に眼を潤ませて、手拭いが幾らあって足りはしない。
そこへ何かが向かってきた。西側の山道から、がさがさ笹を掻き分ける音がして、頬被りの男が姿を見せるではないか。
男は背の両側に薪を掛けた、馬を牽いている。
よく見ると村の常吉である。こいつは向こうのお浜に、「民子を遊びに連れだしてくれ」と頻りに頼んだという奴だ。
「や政夫さん。コンチャどうも結構なお天気ですな。今日は御夫婦で棉採りかな。洒落てますね。ワハハハハハ」
「オウ常さん、今日は駄賃かな。大変早く精が出ますね」
駄賃とは、駄賃馬稼のこと。馬の背中に荷物や人を乗せて運ぶ仕事だ。この時受け取るお代を駄賃と云う。
「ハア我々なんざア駄賃取りでもして偶に一杯やるより他に楽しみもないんですからな。民子さん、いやに見せつけますね。程々(ほどほど)にしないと罪ですぜ。ワハハハハハ」
品のない奴だが、言い返すことのできる身でもないし、僕は笑い惚けて常吉をやり過ごした。
民子さんは眉の端を下げて、泣きそうな顔をしてる。
「あんなのは忘れて、さア始めましょう、民子さん。そんなにくよくよしないで。僕が学校へ行ったって千葉だもの、盆暮れでなくったて、来ようと思えば土曜の晩には来られるさ……」
「そうですよね……、ほんとに済みません」
民子さんは襷で袖を縛り、僕はシャツを捲って一心に綿を採る。
3時間ばかりで7割は片づけてしまった。
もう後は少ないから弁当にしようとて、桐の陰に戻る。
僕は予て用意の水筒を持って、
「民子さん、僕は水を汲んで来ますから、留守番を頼みます。帰りに『えびづる』や『あけび』をうんと土産に採って来ます」
「私、一人で居るのはいやよ。政夫さん、一緒に連れてって下さい。さっきの様な人にでも来られたら大変ですもの」
「だって民子さん、清水のある処は、向こうの山を一つ越して先ですよ。道という様な道もなくて、それこそ茨や薄で足が傷だらけになりますよ。水がなくちゃ弁当が食べられないから、困ったなア、民子さん、待っていられるでしょう?」
「政夫さん、後生だから連れて行って下さい。あなたが歩ける道なら私にも歩けます。一人でここにいるのは私ゃどうしても……」
「民子さんは山へ来たら、大変駄々ッ子になりましたネー。それじゃ一緒に行きましょう」
諦めた僕は弁当を棉の中へ隠して出掛けた。
民子さんは、にこにこしながら僕の隣を歩く。
高くもないけど道のない茂みを行くのであるから、笹原を押し分け、ふらつかないよう樹の根を支えにもする。
「民子さん、掴まって」
崖を攀じ登った僕は、民子さんに手を伸ばす。
「……はいっ」
民子さんは、はにかんで僕の手を取った。
かさかさする紙を巻いた指と、白くふっくらした指。
それはいつまでも触っていたくなる柔らかさで、遠慮がちに僕の指へ添えられるけども、引っ張り上げるときに強く押し付けられる。
僕は初めて民子さんの手を握った。
民子さんが求めるならば僕はどんなことでも拒まれない、また僕が求めるなら、やはりどんなことでも民子は決して拒みはしないだろう。そういう間柄でありつつも、お互いに手を握ったことはなかったのだ。
手を繋ぐ度に僕の心はふわふわして、人に軽々しく言えない心地よさに包まれる。
こんなことなら、もっと民子さんの手を握っていればよかった。




