第1章・第3話 落ち着かないお使い
「それでは行ってきます」
「何を探しているのです?」
僕が玄関からきょろきょろと家の周りを見ていると、お増がうんざりしたように聞いてきた。
今日は松戸に薬を貰いに行く日。誰の薬かといえば母の薬で、3日4日置きに僕が行くことになっている。
帰りが遅くなるので、陽が低いうちから出かけなばならない。
息をする度に夜明けの名残が喉を通り抜け、寝起きの余熱を冷ましてくれる。
「はあ、小石でも蹴って、躓かないように気を付けて」
何か言いたげなお増に見送られ、僕は家を出た。
家の前の坂を下ると、矢切の渡しに向かう矢切大坂と、市川に向かう崖を切り通した道へ別れる。
僕は何をするのでもなく、市川に向かう道を見ていた。
民子さんの顔を見ない日は、何となく淋しく物足りずに思われた。
今日は何をしているかなと思い出すと、ふらふらッと読書室を出る。民子さんを見にゆくというほどの心ではないが、一寸姿を見かければ気が休まるのであった。何のこった、やっぱり民子さんを見に来たんじゃないかと、自分で自分を嘲った様なことが屡々あったのである。
案山子のように突っ立っていた僕を気にせず、白い斑猫が歩いて行った。
僕は我に返り、後ろ髪を引かれる思いで、矢切大坂を下っていく。
今朝は会えなかったか。
坂を下り切ると木々の目隠しが晴れ、見渡すばかりの葱畑が広がる。
この辺りで葱を育て始めたのは明治に入ってからで、東京の村から種を譲り受けて植えたところ評判がよく、それから畑が増えたらしい。
収穫が終わったばかりの葱畑は所々土が黒く、残った葱がこちらを見ているようだった。
僕はまっすぐ伸びる畑道を行き、小さな坂川を渡るために直角に曲がり、江戸川に辿り着く。
藪竹の裂け目へと近づくと、青臭い草葉の匂いとじっとりとした泥の匂いが強まる。
そういえば昨日は夕立が降っていた。
泥濘んだ地面に足を取られぬように川縁まで来ると、草や泥の匂いはするけども川の流れで絶えず入れ替わり、清々しい心持ちになる。
川の端には短い桟橋が架かり、舟は一隻もない。
辺りを見ると、2・3人の男が長椅子に座って煙草を喫んでいた。
そのうち一人が僕に気付く。
「あんちゃん、松戸か?」
「ええ」
「今出たところだ。舟がねえから待ってくれ」
「そうですか」と僕は涼し気に答えるが、腹の底がずんと重くなる。
そのうち対岸から舟がやってきた。男が交代して、客を3人乗せる。
舟には3人1列に座れる長椅子が両脇に3対、間の板2枚と前後に船頭の立つ場所に1人ずつ腰掛けられる作り。
20人は乗れるが、僕はこれを見送る。
この舟は松戸や市川に向かう上り下り舟ではなく、対岸の柴又村へと往復する渡し舟だからだ。
江戸幕府は江戸へ至る途中の川に、橋を架けることを禁止した。江戸城を簡単に攻められないようにするためである。
結果、江戸川には多くの渡し場が設けられ、その数は40とも50とも謂われるとか。
近くで最も栄えた渡しは、矢張り松戸の渡し。水戸街道を通るので参勤交代で行き交った武士や、利差也を稼ぐ商人が渡し賃を落としていった。
それに対してこの矢切の渡しは周りに住む農民の足で、柴又釈天にお参りに行く時に使われる。
漸くして市川から上りの舟が来たので、舟賃を払って乗り込む。
まだ日が低いのに、首筋が日差しでちりちりと炙られる。
舟に乗り遅れたのは何故だったか。
……嗚呼、そうだ。……僕が民子さんを探したからか。
舟は音を立てずに動き出し、陸は僕をそっと見送った。
船頭が櫂を漕ぐ度、僕の心は体を置き去りにして、水面を滑るように遠のいていく。
僕は民子さんとの日々を、うつらうつら思い出していた。
「民さん民さん、瞽女さ止まったから聴きに行かね?」
或る日のこと。
向かいの家に住むお浜と隣の家のお仙が、僕の家に居た民子さんを呼びに来た。
僕は読書室をふらふらと出て、民子さんを探していた。けれど二人の話を聞いて柱に隠れたのだ。
別に盗み聞きをしている訳ではない。物音を立てたら見つかってしまう。
彼女達は民子さんと同い年で、祭文や瞽女が来ると民子さんに声を掛ける。
祭文とは物語を読み上げる流れ人、瞽女は三味線を弾き語る旅芸人。娯楽の少ない農村において、稀人の語りは季節外れのお祭りだと騒がれる。
二人は熱心に民子さんを誘うが、民子さんは首を横に振る。
「お母さんが寝込んでるから心細いでしょうし、私が看ていないと……」
僕はほっとした。
民子さんはこの手の誘いを受けても、何とか断って家を出ない。
隣村の祭で花火や飾り物があるからと、近所の娘が大騒ぎして見に行っても、民子さんだけは頑なに家に残るのだ。
終いにはお増や他の女中が家の入口までやってきた。
お増はそわそわしながら、民子さんに話し掛ける。
「民子や、偶には行ってきたらどうだい? 奥様は私たちが見るからさ」
「私は結構ですよ。それよりもお増さん達が行ったらどうです?」
「そうかい? 悪いね」
お増はあっさり折れると、お浜達と家を出て行った。
本当は直ぐに行きたかったけども、自分から言い出すのはいかにもきまりが悪い。それで民子さんが遠慮するのを、分かっていながら勧めたのだろう。
お増らしい遠回りなやり口だ。
それでも「まあいいか」と、無理くり納得して僕は読書室に戻った。
僕も余りそんな所へ出るは嫌であったから、家に留まったのだ。
すると、民子さんが狐鼠狐鼠と僕の処へ這入ってくるではないか。
「民子さん、瞽女が来たらしいですね。行かないのですか」
僕が聞くと、民子さんはニッコリ笑って僕の耳元で囁く。
「私は家に居るのが一番面白いわ」
その笑顔に釣られて僕の頬も緩む。
僕は何となしに、民子を他処へやりたくなかった。
藍色の空に、千切れた茜雲が浮かんでいる。
萎んだ風が、着物の袖をさらさらと揺らしていく。
すっかり遅くなってしまった。
今は下りの舟。船頭はほとんど櫂を動かさず、川の流れに行き先を委ねている。
僕が遅くなると、民子さんは裏坂の上まで足を運ぶと云う。それも一度ではなく、三度も四度も。僕が渡しに着いていないか見るためだ。
家中の者に冷やかされるので民子さんは、お母さんが心配して『見てお出いで、見てお出で』というからだと、言い訳をするのだとか。
お増に揶揄われた時は、その顔を小突いてやりたくもなった。
けども、しんみりとする夕暮れ時にその話を思い出すと、悴む心を摩られている気持ちになる。
民子さんは今も裏坂の上から、こちらを見ているのだろうか。
舟が矢切に着く。
僕は耳たぼを摘まみながら舟を降りて、緑が少し減った葱畑の間を歩いた。
木々の影が茂る坂を上りきると、家の前に誰かがいる。
見間違えることはない。民子さんだ。
僕は大股で民子さんに近付いた。
「ただいま戻りました」
「えぇあぁ、……お帰りなさい政夫さん」
なんだろう。民子さんは歯切れが悪い言い方をする。
眼差しはつらふらと泳いで、胸の前で握った両手はかちかちと震えていた。
「付いて来てください」と小声で言うと、家に入って向かうは母の寝床。
僕が言われるままに従うと、民子さんは母の枕元に座る。
それに倣って僕も座ると、母は挨拶もそこそこに、こんなことを言った。
「政、これからは決して民子に近付くな」




