第1章・第2話 母の小言
民子さんは俯いていた。
口を一文字に結んで、僕の部屋にいた時とは大違いだ。
呼ばれて僕が母の一間に着くと、民子さんは既に部屋に入っていて、母は布団に座っていた。
部屋の空気は掛布団のように僕を包み、喉をそっと触れてくる。
傍らには20歳を迎えた女性が立っていた。この家で働く女中でお増と云う。
僕を呼んだこの人で、僕を見ると鼻で笑うような顔をした。
「また民やは政の所へ這入っていたな。さっさと掃除をやってしまえ。それから政の読書の邪魔などしてはいけません。民やは年上の癖に……」
と口調こそ嫌味らしくいうが、とりあえず言葉を並べているだけ。
母が民子さんを憎むはずもなく、どちらかといえば非常に可愛がって居る。
その頃、母は眩暈や頭痛を久しく患っておられ、帯を締めていることの方が少なかった。
民子さんがこの家に来てくれるのは、母の看病や野良仕事の手伝いをするためだ。
遊んでばかりでは困るということなのだろう。
母の小言はまだまだ続くが、民子さんが弱々しく口を開く。
「私にも少し手習をさして――」
嗚呼、いつもの民子さんだ。そういう時の母の小言もきまっている。
「お前は手習いよか裁縫です。着物が満足に縫えなくては女の一人前として嫁にゆかれません」
手習いとは習字のことである。寺子屋の肝は読み書き算盤を修めること。手習いは勉学の根っこだが、もう学校に行かない民子さんには必要ない。そう母は考えたのだろう。
民子さんの駄々(だだ)を一と蹴りすると、母は布団をかけて横になる。
話はこれで終わりだろう。
「さあ、行った行った。政夫さん、なんであなたが叩きを持っている?」
お増は民子さんを病室から追い出し、僕から叩きを受け取る。
民子さんが背中越しにくれたものだ。
「まったく民子はしょうがない。もう政夫さんの処には、民子を遣りませんから」
お増はそう言い残して、まだ涼しいうちにと畑へと出て行った。
「政夫さん、御飯ができましたよ」
昼になると僕を呼びに来たのは民子さんであった。
母は頻りに小言を溢すが、僕と年が近く、我が子のように育てた民子さんを甚く気に入っている。民子さんもそのことに気付いているから、どこ吹く風で僕と仲良くしてくれた。
今日は大人しかったようだが、僕の見間違いか。
「政夫さんが今朝読んでいた本はどれでサ?」
僕は読みかけの本を見せる。今朝から読んでいるものの、気が散って進みやしない。それどころか少し前から読み返しているほど。
「今朝と同じではありませんか。ふふっ、仕方ない人、政夫さんは」
「うっ……しっかり読みたい時もあります」
不貞腐れた振りをした僕は、本に視線を落とす。
「むぅ」
すると忽ち上がる不満の声。
僕は顔を上げずに、民子さんを覗き見た。
素っ気ない態度が気に入らないのだろう。民子さんは桜色の餅を、頬に二つも付けている。
たまにはお返ししてあげないと……。
僕は笑いを堪えていると、民子さんはすすっと僕の後ろに忍び寄った。
すると何を思ったのか、民子さんは僕の肩に顔を載せるではないか。
「……何のつもりです?」
「私も政夫さんと同じ御本が読みたいわ」
「僕は書見台ですか?」
肩口から甘い香りが漂う。梨の果実のように、決して自分から前に出ることはないが、気付いたら探してしまいたくなる仄かな香り。
いつも何気なく民子さんと重ねていたものが、肩のすぐ隣にある。
それだけでくらくら眩暈が止まらない。
「政夫さん、早く次を捲ってちょうだい」
民子さんは弾む声で僕をせっつく。けれど僕の目は文章を右から左に流すばかりで、活字の波に溺れそうになる。
心なしか手のひらが汗ばんできた。読書はもう止そう。
僕は本を民子さんに突き出す。
「僕は後で読むので、民子さんが読んでください」
「えェー、政夫さんのいけず!」
文句を言い続ける民子さんに無理やり本を押し付け、僕は硯蓋を開いて今朝擦ったまま使わなかった墨を筆を浸す。
筆を立てた所で、再び梨の香りが背後から近付く。
「じゃあ、筆を貸して」
民子さんの手が、僕の筆を持った右手に押さえ、紙に開くは黒い花火。
「民子さん、子どもですか⁉」
「なにサ! 私の、私のほうが……!」
民子さんは捲し立てようとするが、口をパクパクさせるだけで言葉が続かない。
年上と言いたいのか。民子さんは17歳、僕は13だ。
といっても新しい数え方なら15・13となる。
これは生まれた年を1歳、正月を迎えると数え年で2歳になるから。例えば11月に生まれて翌年1月になると2歳だが、実のところは生後1ヵ月に過ぎない。
旧暦も新しい暦に代わっていくだろうし、伝えるとは難しいもの。
そんなことを考えている間も、民子さんは黙ったまま。
僕は助け舟を出す。
「私のほうが……、何ですか?」
「ふっ、ふーんだ! 政夫さんのことなんか知らない」
「知らないって……。やれ本を貸せ、やれ筆を貸せって、言ってきたのはそっちじゃありませんか⁉」
やいのやいの言い合ってるとお増の声が台所からも響いてきた。
「こらぁ、民子! 遊んでねぇで、疾っと昼飯食っちまえ!」
その声に「あっ!」と漏らして居間に歩いていく民子さん。
僕と遊ぶのに夢中で、昼御飯に呼びに来たことをすっかり忘れていたようだ。
僕も追いかけるように居間の食卓に着くと、女中はみんな食べ終わって食器を片付けている。
僕と民子さんは、残り少ない胡瓜の漬物を分け合って食べることにした。




