第1章・第1話 無邪気な従姉
二つ年上がなんですか!
十三夜の月を見上げると、涙が留めなく湧いてくる。
忘れようとは努めるものの、寧ろ幼き日々の繰り返し。
掴めぬ影を、夢幻を貪ることの多いこと。
そんな訳から、一寸物に書いて置こうか、という気になったのである。
僕の家は、松戸から江戸川沿いに二里(8㎞)ほど下って、矢切の渡しを東に折れ、小高い丘の上、矢切村と呼ばれる処にある。
ここいらで栄えている町といえば、水戸街道の宿場町であった松戸、下総国の国府・国庁が置かれた市川。
江戸の頃より江戸川に橋を渡さない習わしであったが、今は明治。国鉄・常磐線(常磐線)の開通に伴って葛飾橋が架けられた。
これにより松戸からは、茨城の水戸から東京の田端まで行けるように。市川からは東京に行けないが、総武線に乗って千葉の中央を超えて佐倉まで足が伸びる。
北の松戸、南の市川に挟まれた矢切は、風のよく通る田舎の農村。
しかしながら僕の家・矢切の斎藤はこの界隈では名の通る旧家だそうで、祖先に里見の血を引いていると祖父から聞いていている。
里見氏といえば鎌倉時代、源頼朝に仕えた家系。
室町幕府の台頭では時流に乗って鎌倉幕府打倒に与し、南北朝時代に一族が分裂。
難を逃れた子孫が千葉県南部の安房国の領主となり、戦国時代に安房里見氏を名乗る。
後北条氏と手を結んでいたが後で切り、他の勢力と結託し千葉県中部の上総国・千葉県北部の下総国まで勢力を伸ばすも、1564年の国府台合戦で大敗し、元の安房国へと収まった。
矢切という地名は、里見方が矢が切れて負けたことから来ていると謂う。
落ち延びた里見の崩れ二・三人が鍬を持ち、そのうちの一人が斎藤を名乗り、太平の江戸時代を経て今に至るそう。
故に家も古く、奥の間の煙から最も遠いとこでも、天井板は木目も判らぬほど黒く、まるで油炭を塗った様だ。
奥の間に母が居り、その次の十畳の間の南隅、母屋から飛び出た二畳の小座敷がある。僕が居ない時は機織場で、僕が居る内は僕の読書室。
僕は今日も読書室で本を広げていた。紙カモメの片翼が薄くなっところで、顔を上げる。
今日は来ないのだろうか。
僕は読書室の手摺窓を開けて外を見た。開けてみても椎の枝が家に覆い被さり、青空さえ見えない。
この5本の椎の木は家の西側を守る忌森で、村一番の大きさだ。周りの家で屋根が飛ばされても、この家の屋根だけは剥がれたことがない、というのが母の自慢だ。
風が吹いて夏の置き土産が肌を撫でる。旧暦8月も終りかけて暑さの盛りを越えたものの、昼頃には汗ばむ陽気になるだろう。まだ午前の早い時間だということもあって、蝉の鳴き声は遠く、夢の中から聞いているようだ。
椎の枝が日差しを遮ってくれることには感謝するが、見たいものを見せてくれないのは頂けない。
今日は僕から行こうか。
考え事をしていると、後ろから声を掛けられた。
「政夫さァん」
僕は手摺窓に頬杖をついていた顔を、声の主へと向ける。
「民子さ――、はぇ?」
振り向くと頬にふさふさしたものが当たる。僕の筆だ。
慌てて頬を擦って指を見る。良かった、墨はついていない。
「おはようございます。……民子さん?」
「あははははハ、おはよう政夫さん」
僕は抗議の眼差しを送るが、筆を持った少女は猫のように笑っていた。
彼女は民子さんと云う、市川に住んでいる僕の従姉弟である。
体の線は細く、もっとしっかり食べてほしいとは思うけども、顔はふっくら丸い。肌は透き通るほど白くて、桜色の頬は艶やか。いつでも活き活きとしていて、ころころと楽しそうに笑う。
その癖に気は弱く、憎むところの少しもない人であった。
「返してください、民子さん。それは僕の筆ですよ」
「嫌よ。私だって手習いをしたいワ」
駄々(だだ)を捏ねる民子さんは、筆の毛先で自分の頬を撫でていた。
まるで自分の物のように扱っているが、それは僕の筆である。
先刻まで僕の頬を撫でていた筆……、いやそうではなくて――。
「そんなことより掃除はいいのですか? 座敷を掃かないと、すぐに陽が昇って熱くなりますよ」
「障子を叩こうと思ってネ。政夫さんはそのままでいいですよ」
そう言われた僕は、渋々(しぶしぶ)と硯を出した。
悪戯をされても追い出そうとはしない。寧ろ狭い部屋に二人きり。
墨を擦ると白檀の香りが拡がり、気分が落ち着く。
いざ筆を取ろうとするがいつもの場所にない。そういえば民子さんが持ったままなのだろう。
僕は右を振り返るが民子さんはいない。
「民子さ――、ひゃあ!」
背中を何かを触れている。驚いて変な声をあげてしまった。
慌てて掴むと民子さんが持っていた叩きだ。
今度は左を振り返るがまたしてもいない。
「こっちサ!」
「ん? ん!」
耳たぼがギュっとされる。民子さんに摘れたのだ。
仰け反る僕は首を捻るが、悪戯の主はもう入り口から出てしまった。
「なにするのさ⁉」
「座敷を掃かないとねェ」
行ってしまった影に声を掛けると、律儀に返ってくる。
民子さんがいると賑やかだ。
閉じられた暗いこの家が、磨かれたように鈍く輝き出す。
今日もいつも通り、穏やかな一日を過ごせるだろう。
そう思って頬が緩んでいると、奥の間から声がする。
「民子、政夫さん。ちょっと来てもらえますか」




