第1章・第4話 勇ましい心
私は羽織っている黒羽二重――黒くて肌触りの良い布で出来た腰から上の着物――の袖で額を拭いたくなるのをぐっと堪え、声を絞り出す。
「播磨守の使いで参りました」
私を見た薄は娘たちを睨みつける。
「唯の人ではないか。今日訪ねて来られるのは富姫様の妹君だぞ!」
「止せ止せ、薄。あれも久しく霊贄を供えておらぬ。境が緩んで、踏み込めた人を見るのも初めてだろうに」
姫は昂る薄を宥めて、獅子頭を見遣った。
「少し取り乱してしまいました。しかし藤袴はどうした? あやつには伝えておいたが?」
「藤姉は姿を見ておりません」
薄は知っていた答えを聞いたのだろう。縛った後ろ髪を揺らして溜息を吐いた。
物思いから帰ってきた姫は、私に顔を向け目を細める。
「かと言って、ここは私の城。勝手は許さぬぞ」
静かな怒りに捻り潰されそうになるが、ここで退いては取り殺される。
「私にも仕える主が居ります故」
「見上げた忠心ね。階段毎の武者脅しをものともしないとは。武蔵ほどの強者ならいざ知れず、腰に差した長物は飾りではないのね」
武蔵とはかの二刀流・宮本武蔵だろうか。播磨の国に仕えていたと聞くが、いやまさか。
「とんでもありません。私はしがない鷹匠の身でして」
「ほう、それは悪いことをしたね。でも近頃は鉄砲まで持ち出すものだから、五月蠅くて敵わない」
私は思わず面を上げそうになるが、ぐっと押し込めた。胸の内で大きく息を吐いて心を落ち着かせる。
「鉄砲は申し訳ありません。しかし私は主の怒りを買って牢に入れられていました身。……鷹匠の務めを雨に因って妨げら訳ではありませぬ」
「ふむ、しかしお前はここにいるではないか?」
「はっ、我が主が『命ある者の立ち入れぬ天守5重を調べて参れ』と仰せられまして、私は見届けに来たのです」
私の返しを聞いた姫は、つまらぬそうに階段に腰を下ろした。
「それだけの事か?」
「いえ、我が主の宝、日本一の白い鷹がおりまして、天守のこの辺りへ隠れました。姿を見ておりませぬか?」
「『翼あるものは、空の広さを知っておる。千里(4000㎞)、五百里(2000㎞)、勝手な処へ飛ぶ』、とお言いなさるが可い」
話はこれで終わりだと言わんばかりに、姫は私から目を逸らす。次いで掌を払って、私を追い返そうとする。
が、このままでは帰れぬ。
「帰りたいのは山々ですが、先程持っていた雪洞が消えてしまいまして、灯りを頂けませぬか?」
扉を締め切った天守を、灯り無しで降りることは難しい。
私は獅子頭の隣にある灯りを見ながら言うが、姫は嫌そうに顔を歪めた。
「主に似て太々(ふてぶて)しい。私に物を強請るのか」
姫は圧し殺さんばかりの力を込めて、私を睨んでくるではないか。
とはいえ私も命懸けで帰らねばならぬ。震える喉に力を込めて、言葉を紡ぐ。
「階段を踏み外して背骨を折りますれば、刀を振るうことは出来ますまい。例え罪を許さても、武士を誇りを失いたくありませぬ」
私が言い放つと、姫の瞳が和らいだ。
「嗚呼、勇ましくも凛々(りり)しい。人にしとくのが惜しい位だわ。薄やってちょうだい」
「畏まりました」
「恐れ多い、欲しがりましたのは私故」
思いがけない手助けに、私は慌てて面をあげた。
すると姫から二た度声が掛かる。
「お待ち! 私が手ずから点けます」
私は頑なに断ろうとするが、姫は構わず灯りのもとへ向かう。
待たせる訳にもいかず、私は汗で湿った萌黄色の袴を轢き摺って、姫の傍に寄る他になかった。
「この燈火は、明星、北斗星、竜の燈、玉の光も同じもの、人の手で移すことは適いません」
成程、ならば致し方ない。
物珍しい灯りに目を凝らしていると、姫が私の顔を見つめていることに気付く。
私は思わず姫の顔を見返すと、息が掛かる程近いのに目を離せなくなった。
睫毛は長く柔らかそうで、肌は釉薬を塗ったように滑らか。
しかし睫毛は動かず、頬は酒に酔ったように紅いままであった。
恐らく私も同じ顔をしているのだろう。
姫の甘い息を切っ掛けに、時の流れを思い出す。
「帰したくなくなった、もう帰すまいと私は思う」
姫はそう呟くと、燈火を移した私の雪洞を手の中で遊ぶ。
「……私も心が揺らいでおります」
私は暫し躊躇ったが、心根が口から零してしまう。
それを聞いた姫は手遊びを止め、険しさを蓄えて私を見る。
「だが、ここは人のいられる処ではない。もう来てはならぬ、そして他の者も近付けてはならぬぞ」
「いや、私が参らぬのなら、誰も来ますまい。皆、命を捨てたくはありませんから」
乾いた笑みを浮かべて、私が告げると、姫は気が抜けたように首を傾げた。
「お前は命が欲しゅうないのか」
「私は腹切りを言い渡されました」
「なんと……」
姫は口元を手で隠し、目を見開く。
私は姫の人らしい身振りに親しみを覚えた。中身を知らなければ、妖とは思えぬ程に。
「ところが天守に上がろうとする者がいなかったがために、私に白羽の矢が立ったのです」
「では何事もなくこの務めが済めば、腹切りは許されますか?」
「はい、その筈です」
「鷹を連れて帰らねば、罰を受けるやも知れませぬが?」
「……その時はその時」
私が腹を決めて言い切ると、姫は莞爾と微笑んだ。
「まあ、爽やかなお心。あの、獅子に似た若いお方、お名が聞きたい」
おお、取るに足らぬ者と思われた、私が名を聞かれるとは……。
私は舞い上がる気持ちを鎮め、懇ろに答える。
「夢のような仰せなれば、名の有り無しも覚えませぬが、姫川図書之助と申します」
「私は富姫。愛おしくも嬉しいお名、忘れません。そして、――」
生半なところで、富姫は言葉を切った。
私はどうしたのかと思って瞬きをすると、真っ赤な舌をちろっと出して、上唇を舐めるではないか。
そして艶やかな声音で私の背筋を捕らえる。
「今度来ると帰しません」
「誓って、――仰せまでもありません」
私は滝壺に叩き落されたように気持ちになり、膝を着いたまま頭を深々と下げた。
床板しか見えぬ私の目に、灯りの点いた雪洞とほっそりとした白い腕が映る。
私が恭しく受け取ると、姫はゆっくりと頷いたように思えた。
「さらば」
「はっ」
富姫の言葉に私は短く答え、振り返らずに切り穴へ飛び込んだ。
もう、姫のお顔を……、もう、ここに戻ることはありますまい。




