第4話 なけなしの贈り物
列車は隧道を滑りぬけて、枯草の山と山との間に挟まれた、或る貧しい町外れの踏切りを横切ろうとしていた。
踏切りの近くには、身窄らしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建ち並び、踏切り番が振るのであろう、白い旗が流れるように揺れている。
やっと隧道を出たと思うと、何か声が聞こえる。
列車の立てる轟音に掻き消されそうだが、確かな声が……。
「「「ねーねー‼」」」
声を頼りに眼を彷徨わせると、物寂しい踏切りの向こうに頬の赤い3人の男の子が立っているのを、私は見つけた。
曇り空に押し竦められたかと思う程、彼等は揃って背が低く、この町外れのようにぱっとしない着物を着ている。
娘に見つけてもらおうと、声を一つにして列車を仰いでいた。
「お前たちー!」
娘も気付いたのだろう、吹き付ける風にも負けず彼らの声に答える。
娘の姿を認めた男の子たちは、手を挙げたりその場で飛び跳ねたり思い思いに動いていた。そして、幼気な喉を高く反らせ、娘を励ますではないか。
その時、私は全てを悟った。
娘はこれから奉公に出るのだ。見知らぬ土地、慣れぬ家で新しい主に仕える。男の子たちはもうほとんど会えない姉を慮って、態々踏切りまで見送りに来たのである。
列車が前へ進んで、娘と男の子たちが最も近くなった時、娘は動く。
窓から身を乗り出しながら、霜焼けの手を夙っと伸ばして勢いよく左右に振った。すると忽ち、心を躍すばかりの暖かな日の色に染まった蜜柑が、見送る男の子に降り注がれた。
私ははっと息を呑んだ。
この娘の身なりでは自らあの蜜柑を買い求めることは望めない。
恐らく、列車の中で食べるようにと親から貰ったのだろう。
それを見送りに来た弟たちを労うために贈ったのだ。
暮れ色を帯びた町外れの踏切りと、小鳥のように声をあげた三人の子どもたちと、空を舞う思いやりに満ちた蜜柑の色と― 全ては列車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。
が、私の心には、切ない程はっきりと、この光景が焼き付けられたのだ。
そうしてそこから、或る得体の知れない朗かな心持ちが湧き上って来るのを感じた。
私は眠りから目覚めたようにゆっくりと頭をあげる。
そして別人を見るようにあの娘を見つめた。
娘は何時の間にか私の前の席に返っていた。
皸だらけの頬を萌黄色の襟巻に埋めて、大きな風呂敷包みを抱えた手に、しっかりと三等切符を握っている。
私はこの時初めて、言いようのない疲労と倦怠とを、そうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅かに忘れる事が出来たのである。
私は小説家になりたいのだ。
学生時代に発表した『鼻』は、夏目先生に絶賛された。
この時代に小説で食っていくには、出勤義務のない新聞社の社員になって、書いた原稿を新聞に載せてもらうのが普通だ。夏目先生も朝日新聞で『こころ』を連載された。
にも拘らず、卒業後どこの新聞社も私を雇ってはくれなかったのである。
前に述べた通り、夏目先生の紹介で教師の職には就けてはいるが、私は人にものを教えるのは苦手だ。増してや小説と教育の二つに取り組むのでは体が持たない。
『鼻』よりも前に書いた『羅生門』はとてもよく出来ていると思う。
映画にすれば世界に轟く名作になるだろう。
いや、私の書いた小説なんぞ後の世に残りはしないか……。出来ることなら魂だけになって本屋の棚を見て回りたいが。
それもこれも書かねば始まらぬ。
何時人の目に触れるかも分らぬが、この話を書き留めておこうと思う。
この筆に祈りを込めて。
追記
1929年の世界恐慌を引き金に、日本のみならず世界中が不況に喘ぎ、第二次世界大戦が始まってしまう。
母は龍之介が11歳の時に亡くなっている。物心ついた時から健康な姿は見たことがなかっただろう。
娘に出会った翌年の1918年、父は新宿の牧場を手放す。現在の新宿二丁目辺り。
同じ年、相手の兄の許しを貰い、婚約者・塚本文と結婚する。
また同じ年、海軍機関学校を辞め、大阪毎日新聞社の社員に。名実ともに小説家になる。
『羅生門』は1950年に黒澤明監督によって映画化される。第12回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞、第24回アカデミー賞で名誉賞(現在の国際長編映画賞)を受賞する。
芥川賞は日本で一番有名な文学賞になり、『羅生門』は国語の教科書にも採用され、芥川龍之介の小説は今でも多くの人々の心を揺さぶっている。
原作:『蜜柑』
原作者:芥川龍之介
発表年:1919年
青空文庫『蜜柑』
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