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最初はとても怖かった。怖くて怖くて、本当に悪いことをしたと思う。
でも、最初に向かい合った時、その人はとても優しかった。見た目は怖かったけど、瞳の奥に宿る光はとても暖かだった。
次に会った時も、その人は優しかった。にこにこと笑いかけてくれて、私は、なんでこの人のことが怖かったんだろうと不思議に思った。
その次も。
その次も。
その次も。
私はゆっくりと目を開ける。
目の前を、綺麗な青い蝶々がひらひらと飛んでいた。
∇
町の中を駆け抜けながら、ショーマは自分の中に湧き上がる感情を抑えようと必死だった。
――もっと戦いを。
――もっと血を。
それは、ショーマのオークとしての本能だ。
その感情の存在をはっきりと感じるようになったのはつい先程だが、それまでと違うのはどこだろうと考えれば、そこにはサナエの存在が浮かび上がる。
これまでは、何かの命を奪うことへの大義名分が薄かった。森の魔物を退治してくれと言われた所で、そもそも直接的な被害を被ったわけでも、目の前で誰かが魔物に食われるところを見たわけでもない。だが、今回は違う。
目の前で、傷ついてほしくない存在が傷つけられた。
それは、怒りに変わる。
その怒りは立派な大義名分を果たし、罪悪感を薄れさせ、待ってましたと言わんばかりに心の奥に眠っていたオークとしての本能を呼び覚ましてしまったのだろう。
だが、ショーマは苦悩する。
いくら外見が変わっても、いくら鼻が良くなったとしても、ショーマの根っこの部分は人間だ。オークではない。もし、自分がオークであることを完全に受け入れ、本能の赴くままに行動しようとしたら、そのときがきっと鈴科翔馬という存在の最期になるだろう。
だから、祈る。祈りながら、目の前に立ち塞がる敵を叩き潰す。
――どうか、心が痛みますように。
ズン、ズンと地の底から突き上げるような地響きが連続する。そして同時に耳に届くのは、破砕音。メリメリ、バキバキと木の砕ける音だ。
何か巨大なものが、無理矢理に町の中を進んでいる。その様子が、音を聞くだけで容易に想像できた。
その音が、ショーマが一歩進むたびに大きくなる。人間離れしたオークの聴覚に頼らずとも、音の原因がすぐ近く、もう路地を一二本抜ける場所を進んでいることが分かる。
ショーマの頭の中は、不安で一杯だった。人間よりも小さな魔物を相手にするのさえ、はじめは恐ろしかったのだ。その数倍、下手をすれば数十倍の大きさを持つ魔物と対峙するなど考えるだけで背中が寒くなる。
だが、その恐怖もすぐに無くなってしまうものだと考えれば、それが人間であった頃の感情だと思えば、それも愛おしいものだった。多分、オークとしての蛮勇さが、その鈍さが、恐怖などすぐに克服してしまう。
まあ、それは今回のような場面では確実にプラスに働く。なにせ、これからのショーマの仕事は、魔物の前で恐怖に立ちすくむことではない――
飛びかかってくる魔物を躱し、狭い路地に体を滑り込ませる。煉瓦の壁に体をぶつけ、木の桶を蹴り飛ばしながら、ショーマは走る。もうすでに、ダイエットの中で量った体力の限界は超えている。人はピンチの中でこそ力を発揮するというが、ショーマの今の状況がまさにそれだった。
そうして路地を飛び出す。ショーマの鼻が、立ち込める噴煙を嗅いだ。
「――こいつが」
その姿は、ゲーム内でも馴染みの深いものだった。だが、見下ろし画面で見る姿と、自分の視点で見上げるのとではわけが違う。
全身を覆う真紅の鱗。爬虫類特有の切れ上がった目が、ショーマを捉える。目があったその瞬間、ショーマは、自分が死ぬイメージを抱かされた。ハンマーなど通じず、恐怖に動けない自分の体を、易易と噛み砕かれる未来を。
その魔物の名前は、レッドドラゴン。
まさにボスモンスターに相応しい威容を持つ、特大の魔物がそこにいた。
「はは、これを、倒すのか」
ショーマの口から乾いた笑いが漏れる。背中に大量の汗をかいていた。
そうだ、ショーマの仕事は、魔物の前で恐怖に立ちすくむことではない――この、ショーマの巨躯でさえ容易に一飲みに出来るほどの巨体を、討伐することだ。
町のみんなのため、共に戦った仲間のため。そして、守るべき大切な者のために。
ドラゴンが、空を覆うように翼を広げ立ち上がる。
――でかい。
ショーマの小さな体など、小指の先で吹き飛ばされてしまいそうだ。
そして耳をつんざく、音の塊を叩きつけるような咆哮。
思わず耳をふさいでいた。それでもビリビリと鼓膜を殴りつけられ、わずかに意識がとびかける。近くの家の窓ガラスが、弾けるように割れた。
ただ大声を出しただけでこれだ。本体の力がどの程度のものなのか、考えるだけで頭が痛くなる。
だが、
「……やってやる」
心の何処かに、今のこの状況を楽しんでいる自分がいた。
それはオークの感情だろうが、恐怖で動けないよりはずっとマシだ。いまだけは、この体に感謝をしてもいい。
そんなことを考えつつ、ショーマは強くハンマーの柄を握る。ここからは、この武器だけが頼りだ。その柄の冷たい感触が、恐怖からくる腕の震えを沈めてくれるようだった。




