36.ふたりの逃避行(5)
ずいぶん疲弊したと思っていたが、六時に目が覚めた。
朝のニュースを眺めながらタバコを一本味わった後、シャワーを浴びた。リビングに戻ると、ジンが新聞を広げてコーヒーを飲んでいた。
「おはよう、陽介君」
陽介は頷き、腰を下ろした。特に会話はなくテレビを眺めていると、階段を下りる足音がして、リビングに現れたのは鬼塚だ。
「え? どちら様?」困惑の表情でジンがいった。
「鬼塚美姫と申します。昨晩はありがとうございました」鬼塚は深く頭を下げる。
「そのヒトはなにもしていないから、礼はいらないですよ」陽介がいった。
「思いだしました。ミオリ様が治療していた陽介君の上司さんですね」
「はい、そうです」と鬼塚が丁寧に答えた直後、荒々しく扉が開いた。母だった。
母はギラリと睨むような視線を、鬼塚にやった。
やや怯みながらも鬼塚は何かいいかけたが、先に母が結論づけた。「また増えたのね」
そう残して洗面所に消え、すぐに洗濯機が唸りだす。
芽衣子たちはまだ起きてこないまま、八時半になったので母はパートに出かけた。母のスクーターのエンジン音が遠くなるのを聞きながら、ふと疑問がわいて、ジンに訊ねた。
「そういえば、母さんの護衛はいいのか?」
ため息のあと、ジンは答えた。
「一度だけ、ミオリ様がついていったのですが……お母様の逆鱗に触れてしまい、護衛はなしになりました」
「ミオリさんは何をやらかしたんだ?」
「まずは、パート先のスーパーにたどり着くにも色々あったそうです。お母様のスクーターに自転車でついていったそうなのですけど、業務開始の九時より二〇分以上早く着くはずのところが、三〇分の遅刻になったそうです」
「母さんは遅刻とか大嫌いだからな……。それにしても、どうやったらそんな大遅刻になるんだ? 歩いても一〇分ちょっとの距離だぞ」
「それは私も不思議に思うのですが……。何度も自転車で転んで泣いたり、勝手にコンビニによったり、野良猫を追いかけたりで……一時間かかったそうです。スーパーに着いてからも、酷かったみたいです。勝手に商品のアイスクリームを食べ荒らしたり、ワサビのチューブを舐めて大騒ぎしたりで。結局、昼を待たずにお母様から電話があって、メーコ様が慌ててミオリ様を迎えにいきました。よほど酷く怒られたのでしょうね。それ以降、お母様のボディーガードについてメーコ様が口にすることはなくなりました」
「なるほど」と、陽介は頷く。アルキアスでは偉大なミオリが、地球では幼児レベルというのが、妙に得心がいった。
その後は朝の情報番組を見ながら、鬼塚とたわいない会話で時間をつぶした。芽衣子たちが下に降りてきたのは一〇時を過ぎていた。
鬼塚は立ちあがり、礼儀正しい所作で頭を下げ、ミオリとシグゥアに感謝の言葉を述べた。ミオリはゆるんだ表情で、「お気になさらずぅ」と応じたが、シグゥアは敵意すら感じる眼差しで、「はい」とだけ返した。
鬼塚は顔をあげて微笑み、「それでは、失礼します」と残してリビングを出る。
「待ってくれ!」陽介は慌てて鬼塚に駆けより、腕をつかんだ。
「なにかしら?」
「俺もいく。一緒に逃げよう」
「逃げる必要なんてない! 悪の親玉の長兄も、私が倒してやる!」
芽衣子の言葉に陽介は驚いたが、そのような決断をする可能性も予感していた。
「だめだ! この件で、芽衣子がこれ以上傷つくことはない」陽介はきっぱりといったが、それ以上の大きな声にかき消された。
「絶対ダメです!」とミオリ。
「メーコ様! いけません!」とシグゥア。
続けて二人は、熱弁というよりは喚くように、芽衣子の判断を否定し、陽介が口をはさむ隙はなかった。
ミオリもシグゥアも鬼の長兄との戦いで、芽衣子が古代魔法で身体を削ることを心配していた。
「私がいたらなかったばかりに!」ついにシグゥアは泣きだし、説得から懺悔に変わった。「私が途中で力尽きたせいで、メーコ様は古代魔法を……」
ミオリはアルキアスの未来と芽衣子を重ねているようだった。
「メーコ様がいなくなったら、アルキアスの平和はどうなるのですかっ!」と、幼児のように両手をばたつかせる。
パイントルタで魔人が滅びたアルキアスは、すでに平和なはずでは?
そんな疑問もあったが、わざわざ口にするほどのことではない。それよりも今は、芽衣子の決断を覆す方が重要なのだ。
だが、シグゥアとミオリはただ騒ぎ立てているだけで、説得には程遠い。実際、芽衣子の表情にいらだちが目立ちはじめた。
そして、一分後に爆発した。




