34.ふたりの逃避行(3)
「日本語はすぐに覚えた。たしか、英語も三日ほどで覚えたわ。どうやら、鬼の語学力は凄いみたいね。シドマルたちも日本語で話していたでしょ」
「たしかに」と陽介は頷く。「戸籍とかは?」
「三本目のツノよ。鬼の世界ではすでに無用の能力で、王冠としての価値しかない。操れるのは人間だけで、鬼には効かないから。でも世界を越えても、人という種族には有効だった。人間の行動や思想に干渉する力よ。初めは無断飲食をするていどだったけど、上手く使えるようになって、蕎麦屋で偶然に相席した鬼塚家、その娘として入り込んだの。戸籍とかも役所にいって数人操ればなんとかなったわ」
「戸籍や住居はツノでどうにかなったのは理解しましたけど、よくもまあ、半年で主任になりましたね。鬼の世界にパソコンはなかったでしょうに」
「だから、必死で勉強したわよ。でも、さすがに鬼塚専務、仮初めの父は、やりすぎよね。いきなり私を主任にするなんて」鬼塚は浅く笑った。「みんなからの視線が痛かったわ」
「だとしても、簡単じゃないですか? 全員操ればいいだけでしょ」
「そうね」との言葉とはうらはらに、鬼塚は首をふっていた。「軽い操作とはいえ、佐藤君に使ったのは久しぶりのことよ。鬼塚家に入ってからは、その力はもう使わないと決めていたの」
「もったいない。アメリカの大統領や大富豪を籠絡したら、世界は思いどおりですよ」
「実際、できるの。だから怖くなったわ。この世界の過剰な攻撃力に……」
「たしかに、そうですね」陽介は頷いた。
何回も人類を絶滅させる力が、この世界に存在することは、小学生の頃から知っている事実だった。
「あのね、佐藤君。この無敵の力をもってしても、私の世界では何世代も三本目のツノを継承し、五〇〇年かけて鬼は人を滅ぼした。でもこの世界では、私が本気になれば、おそらく一週間で破滅させることができる。核の力があればね。それを知ったとき、怖くて数日は眠れなかったわ」
しばらくの沈黙の後、陽介は話を戻した。
「でも、鬼塚主任はやっぱり凄いですよ。地球に来て一年ほどで、責任ある主任の立場で、奮闘してきたのですから。俺とぶつかることは多かったけど、責任感と根性は認めていました」
「そう」鬼塚は不意に顔をよせてきた。「ねえ、覚えてる? 八戸さんっていたでしょ」
鬼塚の美しさに陽介はごくりと喉を鳴らしてから、口を開く。
「ええ、覚えていますよ」
八戸は陽介の七年先輩で、昨年に退社したので今はいない。ただの真面目な人、とのイメージだったが、鬼塚の飛び級で人が変わった。
鬼塚の粗を執拗にさがしては、ねちねちと説教し、あげくのはてには『女のクセに』とセクハラまがいの言葉まで飛びだしていた。
みかねた内澤が、鬼塚をフォローしたり、励ましたりと、よく動いていたことを覚えている。中でも内澤の愚痴で鮮明に覚えているものがある。『課長にも、八戸さんを何とかしろっていってるのに、軽く注意するぐらいだから、全然変わらない。
結局は、八戸さんだけじゃないんだ。多くの社員が妬み嫉みを抱えていて、八戸さんを応援するような空気感があるからなんだ!』
鬼塚とあまり上手くいっていない陽介だったが、これには同意し、八戸やそれを後押しする連中に怒りを覚えた。
「大変でしたね、あの頃は」
「そうね……」鬼塚は頷いてから、さらに顔をよせた。「ねえ、覚えてる? 八戸さんに長く説教されているときに、佐藤君がずかずかとよってきて、凄いこといったのよ」
「よく、覚えていません」
照れくさくて、陽介は頭をかいた。実際、何をいったかは覚えていないが、八戸本人やそれを黙認する勢力に、辛辣な言葉を放ったのだろう。
「忘れたの? 新米の鬼塚を主任にするなんて、会社の暴挙だから抗議すべきだと、いったのよ」
「うえっ!? そんなこといったんですか?」
「いったわよ。あの、演説じみたセリフを、私は一語一句覚えているわ」鬼塚は立ちあがり、コホンと喉を鳴らした。「やあやあ、皆さん。八戸さんを筆頭にした皆さんですよ。僕も皆さんと同じ思いです。新米の鬼塚さんが主任になるなんて、おかしい! これは会社の暴挙です。今から、皆で都内の社長室に押し掛け、抗議しましょう。我々の抗議が認められなかったら、辞表代わりに、あのハゲ頭をひっぱたいてやりましょう!」




