33.ふたりの逃避行(2)
「そうよ。そして、その力は、人が滅びた鬼の世界でも、王の証として継承されている」
「その力を使えるということは……鬼の姫様」
「姫……のままだったらよかったのだけど」鬼塚は首をふった。「私は、王なの」
「王? 名前通りの美しい姫じゃなくて?」
「えっ、美しい?」鬼塚は一瞬だけ視線を逸らしてから続けた。
「以前は姫だったわ。でも、三本目のツノは一つしかなく、継承できるのも一人。今は……王よ」
「王なのに、命を狙われた?」
「王になったからこそ、命を狙われたの。先代の王である私の父は、兄ではなく、私を王位継承者に指名した。私なんかより、兄のほうがずっと強いのに。だから、兄は私を殺し、王の証である三本目のツノを奪おうとしたの」
「でも、シドマルは死んだ。もう安全ですよね」
「兄は、あと二人いるの」鬼塚は肩を震わせた。「……その兄たちに殺されかけたけど、私は必死で逃げて……この世界に流れてきたの」
鬼塚の震えが激しくなった。今は全身がガタガタ揺れている。
「大丈夫ですか?」陽介は鬼塚の背中をそっとさすった。やがて震えは止まり、鬼塚はありがとうとつぶやいてから、話を続けた。
先代の鬼の王、鬼塚の父は寿命の間際に、娘を次の王に指名した。次の王は、歴代最強とまでいわれる長兄が継ぐものだと、誰もが疑っていなかった。兄弟たちも、ドウゼンやテッペイなどの王家に仕える者も、一般人とでも呼ぶべき普通の鬼たちも、もちろん鬼塚も同じ思いだった。
だから鬼塚は王の継承を辞退したが、覆ることはなく、三本目のツノを相続して、鬼の世界の王となった。長兄は怒り狂い、先代の王である父を殺して、鬼塚に迫った。
鬼塚に味方はいなかった。長兄が継ぐべきという意見が大半だろうが、長兄に楯突いたら殺されてしまう、という恐怖も多分にあった。
孤立無援の中で鬼塚は必死で逃げたが、一ヵ月もすれば気力も体力も底をついて、死を覚悟した。
そして、『終わりの沼』に向かった。入ったら最後、身体はもちろん魂すら呑み込まれるという沼に鬼塚は身を投げた。
神話でも語られる、鬼たちが最も恐怖する沼だ。実際、この沼に入って戻った鬼は存在しない。この沼に身を投げてやれば、死体から三本目のツノを奪うことはできないだろう。そんな意地もあったが、自暴自棄になっていたというのも否めない。
沼に沈み、行きついたのは深夜の高速道路の真ん中だった。
けたたましいクラクションを鳴らすトラックに、鬼塚は撥ね飛ばされた。トラックから慌てた様子で人間が駆けよってきたが、鬼塚のほうが慌てて逃げた。高架の高速道路を飛び降りると、深い森の中だった。
ここはどこだと、森を走りながらも、空を見上げると月が一つしかないことに、驚愕したとのことだ。
車も道路も見たことがない。三つあるはずの月は一つ。沼の先にあった終わりの世界に恐怖しながらも、山奥で野生動物のように一ヵ月ほど過ごした。
転機はとある老夫婦との出会いだった。山中をさまよいながら、木の実で空腹を癒していたが、やがて限界が訪れて動けないところ、登山で道に外れた老夫婦に食べ物を施された。
「一口羊羹を口に押し込まれたのだけど、その甘さ、その幸福、今でも覚えているわ。あの時はすぐに逃げたけど、羊羹の味が忘れられず、数日後に山をおりたの。それからはホームレスみたいな暮らしをしたわ。ひとけのない橋の下で寝て、ゴミを漁ったり、盗んだりもした」
鬼の世界での出来事の方が鬼塚には酷だったのであろうが、陽介にとってはリアリティがなくてピンとこない。日本での底辺生活のほうが、よほど驚きだった。
「そんなことになってたんですね。……でも、それなのに」
「それなのに?」
「それなのに、よくサラリーマンになれましたね。日本の社会常識もなく、言葉も文化もわからないのに、一体何年かかったんですか?」
「実は、一年もかかってないのよ。私が会社の新人として、佐藤君と会ったのは」
「マジですか? 日本語を覚えることすら、一年じゃ大変なのに……。しかも、住居もなけりゃ戸籍すらない」
陽介は驚き、両眉を上げた。




