14.鬼の哭く夜(1)
陽介が勤める会社は都内オフィスビルの高層階にあるのだが、それはほんの一画のスペースしかなく、社長と総務、人事、経理の一〇人ほどがいるだけだ。実際の本拠地は郊外の雑居ビルで、その七階から一〇階に陣取っている。
陽介が九階フロアに入ったのは朝の八時、遅刻寸前なふだんの出社より一時間も早い。
客先でのインストール作業を無断欠勤してしまったのだ。謝罪すべき上司や同僚よりも、遅く出社するわけにはいかない。
フロア内にはまだほとんど人がいなかった。陽介は自席のパソコンを立ちあげて、メールをチェックした。鬼塚主任からの激しいお怒りメールはあったが、それ以外に目立つものはない。
早くは来たものの、特に今やることはなく、陽介は無断欠勤した言い訳を考え始めた。それもすぐに、結論が出た。『電話にもでられないほどの体調不良』と、するしかない。魔法の副作用でラングしていました、などとは口が裂けてもいえないのだ。
八時半を過ぎると、ぱらぱらと人が入りだす。わりと早い時間に主任の鬼塚も現れたが、こちらを睨むだけで何もいわれなかったので、陽介も眼を伏せ、やり過ごした。
就業時間の五分前になると、ひっきりなしに入口のセキュリティを解除する電子音が鳴り続き、わらわらと人が押しよせる。席にすわり、甲高くキーボートを叩く者もいれば、コンビニおにぎりを頬張る者もいる。たとえ数分でも睡眠をとろうと机に顔を伏せたのは、茶髪の新入社員だ。
ああ、このカオスが、中小IT企業の朝だと、陽介はどこかホッとした。
プロジェクトリーダの坂木が息を切らしながら席についたのは、就業のチャイムと同時だった。陽介はネクタイの結び目を整えながら立ちあがり、坂木の席に向かった。課長の隣の席で、坂木は陽介が所属する課の副課長も兼任している。
「坂木さん。すいませんでした」陽介は深々と頭を下げた。「土曜日は風邪で意識もうろうとしていまして……。その……連絡もろくにできずに」
「ああ、聞いてるよ。大変だったね。体調が悪いようであれば、今日もゆっくりしてくれてよかったのに」坂木はずいぶんと疲れた表情だが、優しい声でいう。
「本当に申し訳ありませんでした」陽介はもう一度、深く頭を下げてから、自席に戻った。
ふっと息を吐いてから、そういえばと、首を傾げる。坂木は陽介の言い訳に、「聞いてるよ」と応じた。陽介はずっと音信不通だったというのに、どこで、だれに聞いたというのだろう。
「佐藤君!」鋭い声で陽介の思考を遮ったのは、主任の鬼塚だった。鬼塚の吊り上がった眼が、斜め前の席から射るように陽介を見ている。
「私への謝罪はないのかしら?」
「体調不良のため、無断欠勤して申し訳ありませんでした」陽介は早口でいった。
「体調不良ねぇ」鬼塚は長い黒髪をかき上げてから、鼻で笑った。
「俺が嘘をついていると!?」その仕草にカチンときて、強気な態度でいってやった。
それでも、鬼塚の形の良い切れ長の眼から放たれる鋭い視線に、思わず身をすくめる。
鬼塚美姫は陽介より一つ若い二五歳だ。入社年度でも一年後輩なのだが、入社半年で主任になり、陽介の直属の上司になった。ここでいう主任とはITシステム開発における技術的な責任者で、五人以上の技術者を管理する管理職の一歩手前でもある。鬼塚が優秀であることは陽介も認めているが、わずか半年で主任になるなどありえない。
この異様な出世には理由があった。鬼塚美姫は、社長の義理の息子である鬼塚常務の姪っ子なのだ。つまりはオーナー企業の身内贔屓だ。
だが、そのこと自体に、陽介は特に不満を持っていない。オーナー企業なのだから、その一族が最短距離で幹部になるのは、不思議でもなんでもない。そんなことで、悩んだり腹を立てたりするほど、陽介もウブではないのだ。
「で、体調不良になった理由を教えてくれないかしら」
鬼塚の尖った声が耳に刺さり、陽介は目を細めた。鬼塚とうまくいってないのは、今にはじまったことではない。それでも、今日はずいぶんとしつこい。
「風邪だと思います。病院には行ってないので、詳しくはわかりませんが」
「なぜ、風邪になったのかしら」
「そりゃ、こんな無茶な仕事してたら、風邪にでもなるでしょうよ!」
陽介は鬼塚を強く見やった。視線がぶつかる。
土曜の無断欠勤の非はあるので一喝されるのは覚悟していたが、ここまでねちねちと責められるのは心外だった。こっちだって毎日終電で頑張ってきた。だいたい経営者側にも、こんな状況になるような仕事を受注した責任はあるのだ。
唐突に鬼塚は微笑んだ。
「土曜は心配になって何回も電話したわ。そして、妹さんがでた。『兄は体調不良で寝込んでおりまして、ご迷惑をおかけして申し訳ありません』、そう謝罪をもらったわ」
「芽衣子が……」陽介は驚き、眉を上げる。あんな態度をとっていても、やはり芽衣子は兄想いなのだ。
「こちらこそ申し訳ありません、と私も謝罪したわ。佐藤君が体調不良になったのは、あんなに無理させた私に責任があるとも、伝えた」
「そうですか……」
「そうしたら、妹さんは、『いえ、私が悪いので気にしないでください』といって、真相を教えてくれたわ。妹さんのお風呂を覗いて、水をかけられたのでしょ」鬼塚は眼を見開いた。その瞳には、侮蔑の炎が灯っている。
「違う! そんなのはデタラメだ。魔法の副作用で眠っていただけだ!」
「はぁ? 魔法!?」
「……いえ、なんでもありません」そう残して逃げるように喫煙所に向かった。




