13
胸が重く苦しい。さっきからどうやって息を吸っていいのか分からない。
一体なんなんだとヒスイは自分の胸を掴んでゆっくり息を吸う。胸いっぱいに空気を入れると、勢いよく吐き出した。
「お〜大きなため息ですね」
「は?」
突如降りかかった声にヒスイは驚いて顔を上げる。
とても人と話せる心境ではなかったが、ヒスイはなんとかいつもの調子で笑みを作った。
「貴方は殿下の側近の……なんでこんなところに?」
「レノンです。貴方の顔色が悪そうでしたので心配で」
レノンは紫紺の胸まで伸びるストレートの髪を揺らしてしゃがみ込む。両膝の上に組んだ腕に頬をつけてヒスイの方を見上げた。
「何か悩み事でも? よければ私が聞きましょう」
「レノン様のお手を煩わせることでは――」
「様はよしてください。私は殿下の側近なんて大層な者ではなく、ただの小姓、世話係なんですから」
レノンはハンカチを取り出すと床に敷き「ほら、座って」とヒスイを手招きする。
断るのも悪いかと、ヒスイは仕方なく腰を下ろした。
「あの、特に悩みなんてないです。人酔いしただけで」
適当な理由をつけて話を逸らそうとしたが、涙ボクロがある涼しげな目元がヒスイを捉えて離さなかった。黒い瞳がスッと細まる。
「そうですか。では、私の悩みを聞いてください」
レノンはやれ殿下が服を脱ぎっ放しで困るだの、やれ殿下が好き勝手自由に動き回るので困るだの、殿下のワガママに付き合って酷い目にあったことや、ヒヤリハットしたことなどを面白おかしく語ってきた。
決して短くないその間中、ヒスイの首は激しく縦に動いていた。
――すげー分かる!!
ヒスイも聖女のワガママに振り回されている。
あれがしたいこれがしたいに付き合う側の徒労をヒスイは知っている。
「ってなわけでクラシス殿下には困ったものです。いつになったら殿下は落ち着いて下さるのか……」
レノンがやれやれと首を振り困ったように笑う。
親近感が湧いたヒスイは聖女の我儘の数々を愚痴り返していた。
レノンは「分かる分かる」と頷きヒスイの苦労を全て理解してくれた。やけに気が合う。
それからは早かった。二人はあっという間に意気投合し気楽に笑い合う。ヒスイはレノンを呼び捨てにし、レノンもまたヒスイを呼び捨てにした。そして結局ヒスイは言うつもりの無かったことまで口にしていた。
「それは恋ですね」
「は? え? 恋?」
「うん、恋。要するに、彼女と自分が釣り合わないことを自覚して身を引こうとしたところで、胸が重苦しくなってムカムカするようになったのでしょう?」
レノンは人差し指を得意げに掲げて言う。
「完全に恋ですね」
「恋ねぇ……」
――やっぱりか。
正直出てきた感想はこれだった。
ヒスイは地面を見たままぼんやりと聖女を思い浮かべる。
薄々分かってはいた。
分かっていながら抗って抗って――抗いきれなくなって、それでも認めるわけにはいかなくて。
――だって、聖女に真剣に恋をするなんてあり得ない。
聖女は神の巫女。誰のものになってもならない。
もちろん結婚も出来ないし、愛し合うことも出来ない。本当はキスだってしてはいけない。
廃教会でヒスイからキスをしたあの日からしばらくは、聖女に神の奇跡魔法の調子はどうなのか何度も確認したし、バチが当たらないか怯えいつもより念入りに神に祈った。
今の所なんともないので、人間の魔力を含んだ体液が聖女の体内に入らなければセーフ、つまり接触のみのキスならオーケーという結論に達したがこの先には進めない。
報われない茨の道――。
「でもそれ他の人に言ったらダメですよ? 仮にも神官なんですから、私たちの御心は聖女様だただお一人に――恋なんてしてはいけないんだから」
レノンが心配そうにヒスイの顔を覗き込む。
「私は殿下の小姓としておまけで神官にしてもらえているようなもんだから全然いいですけど敬虔な信徒にバレちゃおしまいです」
「ああ、それなら心配ない」
奇しくもヒスイの心はちゃんと聖女ただ一人へと向いている。
恋と聖女信仰が両立出来ている状況がおかしくてヒスイは薄く笑みを浮かべた。
「レノン、聞いてくれてありがとな。なんか自分が何をしないといけないか見えてきたわ」
そろそろ戻らなくては昼休みが終わってしまうのでヒスイは立ち上がる。
レノンのハンカチを拾うと洗濯して返すと言って仕舞い込んだ。レノンも立ち上がる。
「あまり顔色は変わってないようですが……ヒスイがそう言うなら少しは何か変わったんでしょう」
「ああ、大丈夫。俺は間違えない」
レノンとは教会裏で別れ、ヒスイは一人歩き出す。
――この恋は諦めなくてはならない。
本格的にハマって抜け出せなくなる前にきっちり一線を引くべきだ。
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