第9話 美しい者ではなく、徳を積む者が灯を継ぐ
翌朝の会議室には、いつもより湯気の多い茶が並んでいた。
昨夜、蔵から運び出した集計帳は三冊。設計図二枚。徳札箱ひとつ。りゅうのすけは寝たのか寝ていないのか怪しい顔で、帳面に細い紙片を何本も挟み込んでいる。あき子は卓の端に広げた設計図へ鼻先がつきそうな距離まで顔を寄せ、徳信は読みもしないくせに分厚い帳面を前に腕組みしていた。
「読めるんですか」
泰雅が聞く。
「読めなくても重みはわかる」
「重みで町の歴史を理解しないでください」
「だが、こういう帳面ってのは大事なものほど重い」
「雑です」
「雑でいい。お前が細かいんだから」
言い返しかけた泰雅より先に、障子の向こうで乾いた咳払いがした。
みんなの背が、揃ってほんの少し伸びる。
美汎だった。
杖を片手に入ってくる動きはゆっくりなのに、部屋の空気が先に整う。彼女は椅子へ座る前に、集計帳の背表紙を一本ずつ撫でた。
「そこまで開いたなら、もう隠してもしょうがないね」
桜都が卓の上を片づけ、いちばん奥の席を空ける。
「お聞かせください」
「お聞かせ、じゃないよ。お前さんたちはもう半分まで覗いてる。残り半分を、勘違いしないようにつないでやるだけさ」
美汎は湯飲みをひとくち吸い、喉を湿らせた。
「真澄津ではね、昔、夏至の先導役をひとりの顔で決めなかった。灯籠行列の前を歩くのは、その年にいちばん多く『ありがとう』を書かれた者たちだった」
「たち、ですか」
りゅうのすけが身を乗り出す。
「最初は五人。のちに町が広がってからは七人。年によって違うが、筆頭がひとりいて、その横に、裏方だろうが橋番だろうが、炊き出しの婆さんだろうが並んだ。あの行列は、見物人に見せる飾りじゃない。町を支えてきた手を、町じゅうで見送るためのものだった」
泰雅は思わず、昨年までの行列を思い出した。
先頭の白い装束。よく通る声。きれいにそろった歩幅。沿道の視線は、きらびやかな人たちを追うばかりで、その日の朝に橋板を打ち直した大工も、裏で桶を洗っていた娘も、誰にも見られないまま夜を終えていた。
「だったら、どうして今みたいな仕組みに」
桜都が問う。
美汎は、答える前に窓の外を見た。
役場の屋根越しに、遠い海の色がうっすら見える。
「飢えた年があったんだよ」
その一言で、部屋の音が落ちた。
「米蔵はからっぽ、舟は戻らない、配る札も足りない。あの頃は誰もが切れていてね。誰を先に助けるか、誰にどの役目を渡すか、いちいち揉めた。そこで持ち込まれたのが、鑑顔鏡さ。姿勢も声も印象も、まとめて数字にしてしまえば、選ぶ言い訳になる。誰かが責められたときにも『数字で決めた』と逃げられる」
「秩序のため、ですか」
碩樹の声だった。
いつ入ってきたのか、会議室の入口に彼が立っていた。表情は固い。だが、いつものように人を切り捨てる固さではなく、古傷に触れられた人の顔だった。
「秩序のため、という顔をしていたね」
美汎が言う。
「実際には、揉める手間を減らすため。責任を薄めるため。そういう便利さは、一度使うと手放しにくい」
「……それでも、飢えた年には、線を引くものが必要だったはずです」
碩樹は卓へ近づきながら言った。
「誰が先か、誰が後かを決めないと、奪い合いになる」
「そうだよ」
美汎は頷いた。
「だから誰も、最初から数字そのものを悪いと言わなかった。問題は、その年を越えても、数字に町を任せたことだ」
「……」
「火事の晩だけ使う桶を、毎日の飯炊きに使い始めたようなものさ。いつか焦げる」
碩樹は返事をしなかった。
机の上の集計帳へ手を伸ばし、古びた頁の端をじっと見た。紙の隅には、墨の細い字で、感謝を書かれた者の名と回数が並んでいる。橋番小屋の喜助、炊き出し場のなつ、川端の薬売り・弥七。華やかな肩書きはひとつもない。
「この年の筆頭は、船宿の裏口番だったんですね」
泰雅が言う。
「大雨の晩、荷を全部ひとりで押さえた人だよ」
美汎が答える。
「翌年は?」
「産婆だね。表で祝われることは少なかったが、何十人も抱き上げた」
「……」
泰雅は息を吐いた。
こんなふうに数えられていたのなら、自分はこの町を半分しか見ていなかったのだと思う。目につく札も、貼り紙も、役場の書類も見てきたのに、町が本当に誰の手で保たれているのかを、帳面の形になるまで知らなかった。
美汎はそこで、碩樹の顔を見た。
「お前さんは覚えているはずだよ」
「何を」
「配給場のことを」
碩樹の肩が、わずかに動いた。
徳信が怪訝そうに見る。友莉亜は何も言わず、卓の上の湯飲みをひとつ、碩樹の前へずらした。彼女は人がしゃべり出す前の沈黙を、たぶん町でいちばんよく知っている。
碩樹は椅子に座らず、そのまま立って言った。
「子どもの頃です」
言い出してしまえば早かった。
「父に連れられて、配給場へ行った。誰が先かで揉めて、米俵が倒れた。怒鳴り声ばかりで、泣いている子どもを踏みそうになる大人もいた。あのとき、役人が札を高く掲げて、数字で順番を切った。全員が納得したわけじゃない。でも、その場は収まった」
彼はそこで口を止めた。
たぶん、そのあとに続く言葉を、長いあいだ胸の内で同じ形に固めてきたのだろう。
「だから俺は、曖昧な善意より、線を引ける仕組みのほうを信じてきました」
「曖昧じゃないよ」
美汎がすぐに返す。
「数えて残して、名前を書いて、順番まで決めていたんだ。消したのは、後の人間だ」
その後の人間、という言い方には責める響きがあったが、同時に、まだ戻せるという響きもあった。
桜都は古い集計帳を胸の前で閉じた。
「なら、戻しましょう」
「簡単に言う」
碩樹が言う。
「簡単ではありません」
桜都はまっすぐ答える。
「けれど、間違っているとわかったものを、そのまま夏至へ通すほうが難しいです」
「役所は、わかった瞬間に変われるほど軽くない」
「神守社の石灯籠も軽くありません。でも傾いたら、いつか直します」
「比べる相手が石灯籠なのか」
「倒れる前に直したいもの、という意味では同じです」
徳信が声を上げて笑った。あき子も肩を震わせる。張っていた空気が、ようやく少しゆるんだ。
そのとき、りゅうのすけが帳面の間から一枚の紙を抜き出した。
「これ」
指先が震えている。
「祭礼役順帳。先導役の横に、補記がある」
「読んで」
友莉亜が促す。
りゅうのすけは喉を鳴らし、丁寧に読んだ。
「『その年もっとも多く徳札を書かれし者のほか、橋・火・食・医・道の働きを担いし者を添えるべし。町の灯は、ひとりの美しき姿にて保たれず』」
部屋の誰も、すぐには口を開けなかった。
その一文は、昔の人間が今の真澄津へ向けて残した叱言のようでもあった。美しい者を先へ立てるな、ではなく、美しい者ひとりでは灯は保てない、と書いている。見た目を否定しているわけでもない。だが、あまりにも足りていなかった。
「美しい者ではなく、徳を積む者が灯を継ぐ」
桜都がそっと言った。
「その言い方、使えそうだな」
泰雅が返す。
「貼り紙にしたら揉めますかね」
「確実に揉める」
碩樹が言った。
「ただし、効く」
友莉亜がにやりと笑う。
「じゃあ、揉める前提で広めればいいんだ」
「雑な作戦ですね」
泰雅が言う。
「でも嫌いじゃないでしょう」
「嫌いじゃないです」
会議室の隅で、柔らかな掲示板が、ふ、と息をするように沈んだ。
誰も触れていないのに、表面へ青い筋が一本走る。
机の上に積まれた古札が、わずかに震えた。
「あの板、話を聞いてるのかしら」
あき子が言う。
「聞いてるんじゃない。思い出してる」
美汎は湯飲みを置きながら答えた。
「昔は、こういう言葉を、あれが町じゅうに運んでいたんだよ」
泰雅は板のそばへ寄り、手のひらを浮かせた。
触れる前から、微かなひんやりとした気配が返ってくる。水ではない。風でもない。けれど、どこか流れものの感触だった。
この町は、ずっと人の気持ちで回ってきたのだ。
誰かが誰かを助け、その名を書きとめ、また次の手へ渡す。その連なりが、目に見えなくなっただけで、消えたわけではない。
「夏至までに、これを表へ出す」
泰雅は振り向いた。
「ただの懐古話じゃなく、今の仕組みにする。集計も、貼り出しも、誰が見てもわかる形にする」
「帳面仕事の顔だ」
徳信が言う。
「そういうときのお前、ちょっと怖いな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてる」
碩樹はまだ難しい顔のままだった。
けれど、扉のところで踵を返さず、その場に立っている。それだけで昨日までとは違う。
「役所の中で、いきなり制度は変えられない」
彼は低く言った。
「だが、資料として祭礼役順帳を見せることはできる。正式記録だ」
「それ、かなり大きいです」
泰雅が言う。
「恩着せがましく言うな」
「まだ言ってません」
「顔に出てる」
「顔面偏差値で判断しないでください」
今度は、碩樹まで口元をわずかに緩めた。
笑いは一瞬だったが、それで十分だった。
数字だけを信じてきた男が、記録の中に残った感謝の回数を見つめ、そこにまだ意味があると認めかけている。その変化は、会議室の空気を静かに押し広げた。
昼が近づくころ、美汎は立ち上がった。
「今日はここまでにしな。詰め込みすぎると、若い頭はすぐ焦げる」
「僕らの頭を鍋みたいに言わないでください」
泰雅が言う。
「鍋より始末が悪いよ。鍋は火を止めれば静かになる」
そう返され、徳信がまた吹き出す。
帰り際、美汎は扉のところで振り返った。
「泰雅」
「はい」
「お前さん、自分が何枚ぐらい徳札を書かれてると思う」
「え」
「数えたこと、ないだろう」
「ないです」
「だろうね。そういうのほど、だいたい多い」
言うだけ言って、老女は廊下へ出ていった。
泰雅は返事を忘れたまま立ち尽くす。
背中のほうで、桜都が静かに笑う気配がした。
「否定しないんですね」
「いや、否定する根拠がないので」
「少しは自覚してください」
「自覚すると手が止まりそうで嫌です」
「止めません。たぶん、今までより増えます」
「何がです」
「書かれる枚数が」
そう言って桜都は、集計帳を抱えて窓際へ向かった。
青い光の残る掲示板の前に立つその横顔は、朝よりやわらかかった。
美しい者ではなく、徳を積む者が灯を継ぐ。
その言葉は、まだ町へ出ていない。けれど会議室の中では、もう確かに息をし始めていた。




