第10話 ……以上、現場からお伝えしました
昼下がりの橋番小屋の前は、だいたい何かが起きる。
舟が遅れる。荷車の車輪が外れる。旅人が道を聞く。子どもが欄干に身を乗り出して怒られる。友莉亜はそういう場所を、放っておけない顔で歩く。
その日も、彼女は橋のたもとで、橋板を外している男たちのまわりをくるくる動いていた。
「そこ、今通れませんよー。迂回なら菓子屋の角を曲がって、井戸の横を」
荷籠を抱えたおかみさんを別の道へ流し、泣きそうな旅の子に飴を渡し、橋板を持ち上げる手が足りないと見るや、近くの店先から手の空いた兄ちゃんを連れてくる。ひとつのことを片づけるのでなく、三つ四つをほどいていくやり方だった。
橋の向こうで、瓦版屋の若い男が腕を組んでいた。
名前は与平。口が軽く、足も軽く、面白そうな匂いがすると勝手についてくる。徳札係のことも最初はそのつもりで嗅ぎつけ、会議室の前で「異能力集団、密談中」などと勝手な見出しを考えていた。
「また来たの」
友莉亜が言う。
「取材だよ」
「取材なら邪魔しないで」
「してないじゃん」
「立ってるだけで邪魔になる人もいるんだよ」
「傷つくなあ」
「すぐ治るでしょ」
「治る」
与平はあっさり認め、橋板を担ぐ男たちのほうを見た。
「でも、これは記事になるな」
「橋板が?」
「じゃなくて、お前」
「私?」
「さっきから、誰が何してるか全部知ってる顔してる」
「知ってるよ」
「なんで」
「町を歩いてるから」
「答えになってない」
「歩いてると見えるの。菓子屋の主人が今朝から腰をさすってることも、橋番の爺さんが昨日の雨で咳が出てることも、学問所の廊下を掃いたのが先生じゃなくて生徒だってことも」
与平は眉を上げた。
「それ、書いていいか」
「誰かを笑いものにするなら駄目」
「違う。そういう働き、誰も知らないだろ」
「知らなくても回ってるなら、別に」
「でも、知ったらちょっと嬉しいだろ」
与平は珍しく真面目な声を出した。
「町って、目立つやつばっか載るじゃん。祭りの口上役とか、看板娘とか、偉い役人とか。そうじゃないの載せたらどうなるか、見たくなってきた」
友莉亜は一瞬だけ黙り、橋の向こうで汗をぬぐう男たちを見た。
外した橋板の下から、腐った木片がぽろぽろ落ちている。誰かが替えなければ、今夜には足を取られる人が出るだろう。けれど、その仕事はたいてい、直ったあとでしか気づかれない。
「なら、やってみる?」
「いいの」
「ただし、かっこつけないで。見たまま書いて」
「お前が言うと注文が細かいな」
「細かくないと伝わんないでしょ」
その日の夕方、与平の瓦版には小さな欄ができた。
『橋の板、今日張り替え中。雨のあと三枚浮いていたのを、橋番小屋の喜助さんと鍛冶場の手伝い衆が直しています。渡る人は菓子屋の角から迂回を。……以上、現場からお伝えしました』
末尾の文句は、友莉亜がその場で何となく口にしたものだった。
与平が面白がってそのまま載せた。
翌朝、その瓦版を手にした泰雅は、役場の階段で二度読みした。
「これ、誰が考えたんですか」
会議室へ駆け込むなり聞く。
「私」
友莉亜が胸を張る。
「気づいたことを、気づいたまま言うとき、最後にこれつけるとなんか締まるんだよね」
「なんか、で採用される決め台詞ってあるんですね」
「あるある」
徳信が言う。
「鍛冶場にもある。『あと一発叩けばだいたい決まる』」
「全然決め台詞じゃないです」
「でも本当にそうなんだ」
「あき子さん、止めてください」
「私は好き」
あき子が言う。
その日から友莉亜は、町を走った。
橋の補修場。
炊き出し小屋。
学問所の掃除場。
菓子屋の裏口。
魚市場のぬめった石畳。
朝は井戸端、昼は川沿い、夕方は坂の上。見えない働きを見つけると、その場でしゃがみ込んで二、三言だけ聞く。
「今朝いちばん助かったこと、何ですか」
「それ、誰がやってくれたんですか」
「言いそびれてるなら、今言って。私が運ぶから」
人は急に聞かれると、最初はうまく答えられない。
だが友莉亜は待てる。待っているあいだに桶を持ったり、荷を押さえたり、走って子どもを捕まえたりするから、相手もつい話してしまう。
昼前、学問所の廊下で。
「先生が掃いたんじゃなくて、朝早く来た三年の子たちですよ」
教員が笑いながら言った。
「名前、載せていいですか」
「叱られない形なら」
「褒められる形にします」
友莉亜はにっと笑った。
昼過ぎ、料理屋の裏口で。
「煮物の鍋、今日の火加減よかったでしょう」
親方が腕を組む。
「弟子さん?」
「いや、今朝いちばん先に炭を見たのは、賄いのおばちゃんだ」
その言い方には、前より少し照れが混じっている。
「それ、載せます」
「載せるのか」
「載せます。……以上、現場からお伝えしました」
「いちいち言うんだな」
「言うんです」
「嫌いじゃない」
夕方、神守社の石段で。
桜都は拝殿前の掃き清めを終えたところだった。友莉亜は息を切らしながら駆け上がる。
「今日は何かあった?」
「子どもが鈴紐を結び直してくれました」
「自分から?」
「はい。高すぎて届かないところは背伸びして、届いたところだけでも、と」
「それ、かわいい」
「かわいいで済ませないでください。たいへん助かりました」
「じゃあ助かったって書く」
瓦版の小欄は、二日で三倍に膨らんだ。
最初は笑い話として読まれた。
『橋の欄干、ぐらつき解消』
『菓子屋の冷やし箱、鍛冶場の若旦那が蝶番交換』
『学問所の廊下、先生より早く生徒が箒を動かす』
どれも大ニュースではない。けれど、町の人間は妙にそこを読む。
自分の家の前の橋だ。
自分の買った氷菓の話だ。
昨日、たしかに見た背中だ。
そういう近さがあるからだろう。読んだ人間が次の人に話しやすい。
与平は最初こそ面白がっていたが、三日目には紙面の空きとにらめっこして頭を抱えた。
「足りねえ」
「何が?」
友莉亜が聞く。
「欄」
「広げれば」
「他の記事が入らなくなる」
「じゃあ他の記事削れば」
「急に編集長みたいなこと言うな」
「向いてるかも」
「困る。俺が働く場所なくなる」
会議室でも変化は起きていた。
掲示板の前に置いた徳札箱へ、ぽつぽつ紙が増え始めたのである。
立派な礼状ではない。走り書きが多い。
『今朝、桶を拾ってくれた人へ』
『市場で転びそうになった母を支えてくれた小袖の娘さんへ』
『料理屋の裏で炭を起こしてくれた人へ』
名前のない札も多い。けれど、名前がなくても、町のどこかの行いをちゃんと指していた。
「増えてる」
泰雅はそのたびに、つい声を落として言ってしまう。
「増えてますね」
桜都も、やはり小さな声で返す。
どこかの誰かが、言葉にしてくれた。その事実は、数字とは別の重みで胸へ落ちる。
五日目の夕方、友莉亜は市場の端で、看板商会の若い衆が瓦版を丸めてごみ箱へ投げるのを見た。
「そんな紙、何の役に立つ」
聞こえよがしに言う。
「橋番のじじいが橋を直しただの、賄い婆が鍋を見ただの。そんなもん書いて町が潤うか」
それに答えたのは友莉亜ではなく、魚を並べていたおかみさんだった。
「潤うよ」
短く、太い声だった。
「少なくとも、あたしは今朝、誰に礼を言えばいいかわかった」
若い衆は鼻を鳴らして去ったが、友莉亜はその背を見送りながら、口の端を上げた。
効いている。だから嫌がられる。
効いていないなら、誰もわざわざ捨てに来ない。
その夜、会議室で与平が新しい見出し案を広げた。
『見えない働き、見える紙面へ』
『異能力集団改め、町の裏方係』
『誰かの助かる一日、募集中』
どれも少し違う。徳信が「裏方係は弱い」と言い、あき子が「異能力集団は残してもいい」と言い、りゅうのすけは「見える紙面へ、は語感が」とぶつぶつ考え込む。
友莉亜はその横で、筆を振った。
半紙に丸い字が走る。
『……以上、現場からお伝えしました』
「これだけでよくない?」
差し出された紙を見て、泰雅は吹き出した。
「なんか、もう負けた気がします」
「何に」
「強さに」
「いいじゃん。わかりやすい」
「わかりやすいです」
桜都も笑う。
「町の人も、次を待つようになるかもしれません」
「なるよ」
友莉亜は自信たっぷりに言った。
「だって、現場ってだいたい、次の日も何か起きるもん」
そして本当に、待つ人が出た。
橋番小屋の前では、子どもが瓦版を広げて「今日は何の現場?」と聞き、
菓子屋では客が氷菓を受け取りながら「裏口の話、載ってたね」と笑い、
役場の窓口では、紙束を抱えた書記見習いが「掃除当番のことも載るかな」とそわそわする。
大きな制度はまだ変わらない。顔面偏差値の募集貼り紙も、まだ西会議室の壁にある。
それでも、町の視線がほんの少し、別の方向へ向き始めていた。
夕暮れ、友莉亜は役場前の石段に腰かけ、ようやく一息ついた。
隣に泰雅が座る。
「走りすぎです」
「今日だけで七か所」
「数えてるんですか」
「だいたい把握しておかないと、倒れたとき運び先に困るので」
「その備え、優しいんだか怖いんだか」
「どちらもです」
友莉亜は笑って、膝を抱えた。
「でもさ、ちょっと面白いね」
「何がです」
「みんな、自分が見えてないだけで、案外ちゃんと見てる」
「……そうかもしれません」
「言いそびれてるだけなんだよ。ありがとうも、助かったも、ぜんぶ」
彼女は石段の下を見た。
町の灯が一つずつともり始めている。橋の向こう、菓子屋の軒、役場の玄関、神守社の参道。誰かが火を入れて歩いているのだ。
「だから、言える形を作ればいい」
友莉亜は立ち上がった。
「明日も走る。……以上、現場からお伝えしました」
「もう締めですか」
「締めたほうが、なんか次へ行きやすいから」
「便利な言葉ですね」
「でしょ」
彼女は笑って石段を駆け下りていく。
泰雅はその背を見送りながら思った。
町を変えるのは、立派な議論だけではない。こうして誰かの働きを、軽やかな声で次の人へ渡していくことでも、空気は動くのだと。
会議室へ戻ると、徳札箱の口から新しい紙が一枚、半分はみ出していた。
『瓦版の娘さんへ。母が自分の礼を見つけて泣きました。書いてくれてありがとう』
それを読んだ友莉亜は、しばらく黙ったあと、鼻の頭をこすった。
「……これは反則」
「泣くんですか」
あき子が覗く。
「泣かない」
「もう目が」
「これは風」
「会議室の中です」
「細かいなあ」
細かくてもいい、と泰雅は思った。
こういう紙は、細かい手で拾わないと、するりと床の隙間へ落ちてしまう。
友莉亜が広げた小さな欄は、今や町のあちこちに小さな火をともしていた。




