第8話 鈍い鍵の向こう側
りゅうのすけがそれを見つけたのは、役場の第二書庫の最下段だった。
「ありました!」
会議室の扉を開けるなり叫ぶものだから、泰雅は湯呑みを危うく落としかけた。
「何がです」
「徳札箱です」
「箱?」
「箱じゃなくて語です」
「紛らわしい」
あき子が言う。
「いや、でも箱もありそうなんです!」
りゅうのすけは両腕いっぱいに目録を抱えていた。紙片が袖からこぼれ、髪には埃がのっている。けれど本人は気づいていない。そういうときの彼は、大抵本物だ。
机いっぱいに広げられた旧目録の端に、小さな文字で書かれている。
『徳札箱 一基 旧蔵庫東段上棚 鍵、勘定方預り』
桜都が身を乗り出した。
「旧蔵庫」
「役場の北棟の裏です。今は閉じたまま」
泰雅が答える。
「倉というより、昔の書類蔵ですね。湿気がひどくて、十年以上開けてません」
「開けましょう」
友莉亜が即答する。
「簡単に言いますね」
「簡単じゃない顔してる場合?」
「それはそうですけど」
勘定方へ確認に行くと、返ってきたのは案の定、渋い顔だった。
「旧蔵庫だと?」
帳簿の前に座る若い勘定役が眉を寄せる。
「鍵はあるにはあるが、もう使っておらん」
「使わなくても、存在しているなら貸してください」
泰雅が言う。
「貸すだけならまだしも、あそこは開かぬぞ」
「試すだけ試します」
「なぜそこまで」
そこへ、別の机から声が飛んだ。
「何の話だ」
碩樹だった。
最近、彼は以前より会議室の名を口に出す頻度が増えている。好意的なのか監視なのかは、まだ半分ずつわからない。
泰雅が事情を説明すると、碩樹はしばらく黙り、やがて引き出しの底から古い鍵を一本取り出した。
鉄の色が鈍く、握るところにだけ人の手のつやがかすかに残っている。
「開かなければ諦めろ」
「開いたら」
桜都が訊く。
「中を記録にとれ。勝手に持ち出すな」
その言い方が、許可なのか牽制なのか、相変わらず判然としない。
だが鍵は確かに、こちらの手に渡った。
旧蔵庫は、北棟の裏の、日が回りにくい場所にあった。
土壁はところどころ黒く湿り、扉の前には去年の落ち葉が半ば土へ戻っている。蝶番は錆び、鍵穴のまわりには何度も雨を吸った木の筋が浮いていた。
「これは……」
泰雅が思わず息をつく。
「鈍い鍵だな」
徳信が言った。まるで包丁の切れ味でも評するみたいだった。
「鍵に鈍いも鋭いもあります?」
「あるだろ。音が」
そう言って彼は鍵を受け取り、鍵穴へ差し込む。ぐ、と力を入れる。扉が、ぎ、と不穏な音を立てた。
「やめてください!」
泰雅とりゅうのすけが同時に叫んだ。
「折れる」
「壊れる」
「開けようとしただけだ」
「力ずく以外の手段を先に考えてください」
あき子が徳信の腕から鍵をひったくった。
彼女はその場にしゃがみ込み、鍵穴をのぞき込む。耳を寄せ、鍵をほんの少し回して、音を聞く。
「……中の板ばねが片側だけ沈んでる」
「わかるんですか」
泰雅が訊く。
「音で」
「わかる人、怖いですね」
「褒め言葉で受け取っとく」
りゅうのすけはすでに目録の次の冊子を開いていた。
「待って。旧蔵庫の開錠手順が別にあるかも」
「そんなものまであるんですか」
「古い役場は、ある」
彼は指先で行を追い、急に「あった」と息を呑んだ。
「『東段蔵、湿気の年は先に下の通風板を外し、三度打ち、鍵を半刻あたためてから回すべし』」
友莉亜が目を丸くする。
「半刻って」
「今からそんなに待つの?」
「半刻も待たない。あたためる」
あき子が言う。
「徳信、炭ある?」
「持ってきてる」
「何で」
「鍛冶屋だからだ」
そうして始まった旧蔵庫開けは、もはや半分、祭りの前の余興みたいだった。
徳信が小さな火鉢を用意し、鍵を炭の熱でじわじわあたためる。あき子は通風板の釘を外し、りゅうのすけは「三度打ち」を扉のどこに行うべきか、目録の余白書きと格闘する。友莉亜は通りがかった役人に「見物料は取らないよ」と勝手なことを言い、桜都は湿り気を払うための小さな祓い言を、今の言葉に直して口の中で整えていた。
「ここだと思う」
りゅうのすけが扉の桟を指す。
「左、右、真ん中の順」
「間違えたら?」
泰雅が訊く。
「たぶん、また最初から」
「たぶんで蔵を開けるんですか」
「学問ってだいたいたぶんから始まる」
「怖いですね」
「だから面白いんだよ」
徳信が拳の節で、こん、こん、こん、と順に打った。
あき子が温まった鍵を差し込み、今度は力ではなく、指先だけでそっと回す。
鈍い音がした。
だが今度の鈍さは、拒む音ではなかった。長く眠っていたものが、重たい肩を一度だけ回したような音だった。
鍵が、ゆっくり回る。
「開いた」
友莉亜が息を呑む。
「まだ」
あき子は扉に手を当てる。
ぎ……と、蔵の戸が内側へわずかに動いた。湿った空気が一本、細く流れ出す。
その空気は、古い紙と木と、ずっと閉じ込められていた時間の匂いがした。
中は暗かった。
泰雅が灯りを掲げると、棚が幾筋も並び、そのいちばん奥に、小ぶりの木箱が見えた。箱の前面には、かすれた墨で『徳札箱』とある。
「本当にあった……」
桜都の声がかすれる。
りゅうのすけなど、今にも泣きそうな顔でうなずいていた。
「あるって言ったでしょう!」
箱は重くはなかった。埃を払い、会議室へ運び込んでから蓋を開ける。
中には三つのものが入っていた。
一つ、薄い帳面。
一つ、細長く巻かれた設計図。
そしてもう一つ、色の抜けた札の束。
帳面の表には『夏至徳札集計』とある。
りゅうのすけが震える手で最初の頁を開くと、年ごとに名前と数が並んでいた。
「これ、感謝を書かれた回数だ」
泰雅が呟く。
頁の端には、見覚えのある苗字もある。橋番、豆腐屋、紙漉き、炊き出し場の世話係。派手な看板役の名は少ない。かわりに、毎日の暮らしの裏側で手を動かす人々の名が、几帳面な字で積み重なっていた。
桜都は札の束を一枚ずつ見ていた。
『雨の夜に戸を貸してくれてありがとう』
『病のとき、水を汲んでくれて助かりました』
『祭具の紐を結び直してくれたこと、見ていました』
どれも短い。けれど、それぞれに生活の重さがある。
あき子は設計図を広げた。
「見て。これ、会議室の掲示板から床下へ管が伸びてる」
紙の上には、役場の見取り図と、細い線で描かれた管路が走っていた。会議室から北棟、さらに通りへと枝分かれしている。
「送風絡繰」
泰雅が文字を読む。
「やっぱりあるんだ」
「しかも、各所に投書口」
あき子の目が光る。
「橋番小屋、神守社、学問所、鍛冶場の近く……」
「町そのものに、札を集める口があったんですね」
桜都が言う。
「会議室だけじゃなく」
そのとき、会議室の入口で、誰かが咳払いをした。
振り向くと、碩樹が立っていた。いつのまにか来ていたらしい。
「開いたのか」
「はい」
泰雅が答える。
「記録にとります」
「見ればわかる」
碩樹は机の上の集計帳へ手を伸ばし、しばらく黙って頁を繰った。
数字を見ている顔だった。だが、いつもの勘定方の顔とも少し違う。
「この年は飢饉の翌年か」
ぽつりと言う。
「札の数が急に減って、選ばれる名前も変わっている」
「わかるんですか」
りゅうのすけが目を輝かせた。
「年号くらいは見る」
碩樹はぶっきらぼうに返し、さらに頁をめくった。
「……そのあとからだな。顔面偏差値の記録が別冊で付き始めるのは」
会議室が静かになる。
数値が悪いのではない。
だがそれが、感謝の記録の横へ並び、やがてそちらを押しのけたのだとしたら。
町はいつから、暮らしを支えた回数より、見た目の整いを先に数えるようになったのか。
「全部つながってきましたね」
泰雅が言う。
「まだ途中です」
桜都は即座に答えた。
「でも、途中まで来た」
その声には、久しぶりに抑えきれない高揚があった。
柔らかな掲示板は、その夜、珍しく長く青白く光っていた。
蔵から出てきた古い札を前にしたからか、それとも設計図に描かれた管路が、まだどこかで息をしているからか。
板の表面をなぞると、奥のほうで微かに風のようなものが返る。
「生きてる」
あき子が囁く。
「全部は死んでない」
りゅうのすけは集計帳を胸に抱えたまま、夢中で言った。
「次は、この記録をもとに、昔の先導役の決まりを確かめよう。誰がどれだけ感謝を書かれたか、その並びと、祭りの記録を突き合わせれば」
「寝てからにしてください」
泰雅が言う。
「目が完全に学問所の夜です」
「学問所の夜って何」
「ろくな時間じゃないって意味です」
笑いが起きた。
だが笑いの底には、確かな手応えがあった。
鈍い鍵の向こう側にあったのは、ただ古い箱ではない。
この町が本当は何で回っていたのか、その証拠だった。
会議室を出る前、桜都は設計図の端にそっと手を置いた。
「昔の人も、忘れられると思って作ったわけではないんでしょうね」
「忘れさせないために、こんなに何重にも残したのかもしれません」
泰雅が言う。
帳面に、設計図に、札に。
言葉は失われやすい。だからこそ、人は何度も別の形で残そうとする。
その夜の帰り道、北棟の裏を通ると、開いたままの蔵の隙間から、春でも夏でもない冷たい風が細く流れてきた。
泰雅は足を止める。
風というより、気配だった。町の底をめぐる、まだ名をはっきり呼べない何か。
夏至まで、残りはもう少ない。
それでも彼は、ようやく本当に、間に合うかもしれないと思えた。




