第7話 八方ブスと書かれた朝
朝の町は、紙で汚れていた。
役場へ向かう途中、泰雅は最初の一枚を見つけた。
魚市の横の白壁に、乱暴な墨で大きく書かれている。
『八方ブス』
『昔にしがみつく女』
思わず足が止まった。
胸の奥で、何かが冷たく縮む。意味がわからないわけではない。誰に向けたものかも、すぐわかる。
桜都が古い規約を持ち出し、顔面偏差値の仕組みへ真正面から異を唱え始めてから、看板商会の連中はあからさまに顔をしかめるようになっていた。そういう空気は感じていた。だが、ここまで露骨な形で来るとは思っていなかった。
泰雅は壁から紙を剥がした。
指にべたりと糊がつく。乾ききっていない。つまり、夜のうちに貼られたばかりだ。
次の角にもあった。
菓子屋の裏にも。
神守社へ上がる石段の途中にも。
息が少し荒くなる。
一枚剥がしても、その先にまた一枚ある。嫌がらせというものは、内容よりまず量で人の心を削るのだと、その朝、泰雅は知った。
「泰雅さん!」
友莉亜が坂の下から駆けてきた。
「見た?」
「見ました」
「神守社の前にもある」
「知ってます」
「桜都さんは」
「まだ会ってません」
「じゃあ先に剥がそう」
その言い方が少しも迷っていなかったので、泰雅は救われたような気がした。
二人で石段を上がると、桜都はすでに社の前に立っていた。
剥がしていない。
ただ、貼られた紙をじっと見ている。
背筋は伸びているのに、指先だけが白くなっていた。文箱を持つ手に、力が入りすぎているのだ。
「桜都さん」
泰雅が呼ぶと、彼女はゆっくり振り向いた。
「おはようございます」
声はいつも通りだった。だから余計に、胸が痛んだ。
「おはようございますじゃありません。剥がします」
「はい」
「見る必要、ないです」
「もう見ました」
その返事が静かすぎて、泰雅は言葉を失った。
紙に手をかけた瞬間、横から別の手が伸びた。
徳信だ。無言で上の端をつかみ、そのまま力任せに一気に剥がす。紙はびり、と半分に裂けた。
「雑」
あき子が言う。
「急いでる」
「壁まで剥がす気?」
「そんな力加減、できるか」
会議室へ集まったころには、机の上に中傷の紙が十数枚積み上がっていた。
どれも同じ墨、同じ粗い紙だ。
りゅうのすけが眉をしかめながら並べる。
「字、わざと崩してますね」
「わざと?」
泰雅が訊く。
「本来の癖を隠したいとき、止めや払いを均一にしようとするんです。でも、均一にしようとすると逆に、似た形になる」
彼は紙を指で弾いた。
「それとこの紙、役場のものでも学問所のものでもない。もっと安い」
「安い紙なら、町じゅうにありますよ」
泰雅が言うと、友莉亜が首を振った。
「でも糊の匂いが変」
「糊の匂い?」
「うん。普通の糊じゃなくて、ちょっと甘い。看板を貼るときの糊に近い」
そこで、全員の顔が少しずつ同じ方向を向いた。
看板商会。
顔面偏差値の高い者を前面に押し出す看板、口上、売り文句で大きくしてきた商家だ。桜都の言い分は、彼らにとって面白いはずがない。
「だからって商会全体がやったとは限らない」
泰雅は言った。自分でも、妙に硬い声だった。
「限らないけど、近いところにいる人かもね」
友莉亜は鼻先で紙をあおぐ。
「この糊、前に看板商会の倉で嗅いだことがある」
桜都は机の端に手を置いたまま、紙を見ていた。
怒っているのか、傷ついているのか、その両方なのか、顔だけではわからない。けれど、彼女がいつもより瞬きの回数を減らしていることに、泰雅は気づいてしまった。
泣きたくないとき、人は目を閉じる回数を減らすことがある。
「桜都さん」
「はい」
「今日は、社で休んでいてください」
「嫌です」
即答だった。
「でも」
「私が隠れたら、書いた人の思うつぼです」
桜都はゆっくり息を吸い、吐いた。
「見た目だけで人を測る仕組みがおかしいと言っているのに、悪口を言われたから引っ込むのでは、話がつながりません」
その理屈は正しい。
正しいのに、泰雅は少しも安心できなかった。
「正しいかどうかの前に」
言いかけて、うまく続かなかった。
守りたいと言えば、重い気がした。放っておけないと言えば、軽すぎる。
言葉を探しているうちに、徳信が代わりに言った。
「一人で歩くな」
桜都が徳信を見る。
「泰雅が余計な顔するから」
「徳信さん」
「余計じゃないだろ」
徳信は泰雅のほうも見ずに続けた。
「見てるこっちが腹立つ」
少しだけ、会議室の空気がほどけた。
その日の聞き込みは、友莉亜が先頭だった。
瓦版配り、炊き出しの手伝い、井戸端の世間話。彼女の顔は町のあちこちに利く。
「昨日の夜、看板商会の裏口で紙束持って走ってた子がいた」
「番頭見習いの庄吉じゃないか」
「いつもは愛想いいのに、今朝は目を合わせなかった」
そんな話が、ばらばらと集まってくる。
昼すぎ、看板商会の倉の裏で、庄吉はあっさり見つかった。
紙を切る台のそばで、役にも立たないくらい小さくなっていた。
年は泰雅たちより少し下だろうか。身なりはきれいで、爪の先まで整っている。けれど、今はその整い方がかえって頼りなく見えた。
「貼ったの、君ですね」
泰雅が真正面から言うと、庄吉はびくりと肩を揺らした。
「し、知らないです」
「この糊の匂い、ここで嗅いだものと同じ」
友莉亜が言う。
「あとはこの紙。切り口が、倉の裁断台の癖と同じ」
あき子が台を撫でながら付け加える。
逃げ道が狭まるにつれ、庄吉の唇がふるえ始めた。
「だって」
とうとう彼は言った。
「だって、あの人が変なこと言うから」
「変なこと」
桜都が一歩前へ出る。
庄吉は目を合わせられないまま、早口になった。
「顔の点で人を選ぶのが悪いみたいに言って。でも、看板はどうするんですか。店先はどうするんですか。見た目がいい人が立てば、客は来るんです。そうやって町だって回ってきた」
「だからって、あの言葉を壁に書いていい理由にはなりません」
桜都の声は高くない。むしろ低かった。
「……」
「あなたが守りたかったのは、町ですか。商いですか。それとも、自分が褒められる仕組みですか」
庄吉の肩が小さく跳ねた。
図星なのだと、誰にでもわかった。
彼は番頭見習いとして、顔立ちの整った若者を看板役に立て、通りの客を引く仕事を任されているらしかった。顔面偏差値の仕組みが弱まれば、自分の働きも価値を失う。そう思って、先に相手の価値を汚せば勝てる気がしたのだという。
小さい。
小さいが、現実にありそうな小ささだった。
「謝れば済む話じゃない」
徳信が低く言う。
庄吉はうなだれた。
「……すみません」
「桜都さんに」
泰雅が促す。
庄吉はようやく顔を上げ、桜都を見た。だが、目を合わせきれず、また落とす。
「すみませんでした」
桜都は少し黙ってから、答えた。
「次に紙を使うなら、誰かを傷つけるためではなく、助けるために使ってください」
その言い方は、赦し切っているわけではなかった。けれど、その場の誰かをさらに踏みつけるための言い方でもなかった。
倉を出たあと、泰雅はしばらく黙って歩いた。
怒りはまだ残っている。庄吉が小さな人間だったからといって、朝の紙のいやらしさまで小さくなるわけではない。ああいう言葉は、貼られた壁だけでなく、見た人の胸にも薄くへばりつく。
坂を上がる途中、桜都がふと立ち止まった。
「泰雅さん」
「はい」
「今日は、ありがとうございました」
「何も終わってません」
「でも、一枚ずつ剥がしてくれたでしょう」
「当然です」
「当然だと思って動ける人ばかりなら、あんな紙は町に残りません」
桜都は前を向いたまま続けた。
「朝、最初にあれを見たとき、喉の奥が冷たくなりました。文字は消しても、読んでしまった事実は残ります。読まなかったことには、できません」
泰雅は手にしていた紙束を強く握った。
「だから、もう二度と見なくて済むように――」
そこで言葉が止まる。
何と言えばいいのかわからなかった。黙らせない、傷つけさせない、前を向けるようにする。胸の内側ではいくつも言葉が立ち上がるのに、口に出そうとするとどれも大げさに聞こえた。
桜都はそんな泰雅を見て、わずかに首をかしげた。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「まっすぐですね」
「僕がですか」
「怒るときの顔が」
そんなことを言われると思わず、泰雅は目を瞬いた。
「普段、もっと器用にごまかす人なのに」
「観察しないでください」
「もうしてしまいました」
風が吹き抜け、石段の脇の紙切れをさらっていく。
桜都の横顔にはまだ朝の冷たさが残っていた。けれど、その目は折れていなかった。まっすぐ前を見ている。その目を見た瞬間、泰雅の中で、ただの同僚でも、手伝い仲間でもない感情が、はっきり輪郭を持った。
ああ、この人が黙らされるところを、見たくない。
できることなら、この人の声が通る町にしたい。
その日の夜、柔らかな掲示板には、見慣れない札が一枚貼られていた。
『神守社の石段を、毎朝きれいに掃いてくれてありがとう
言われるまで気づかなかった』
差出人の名はない。
けれど桜都はその札を見て、しばらく指先で端をなぞっていた。
「助けるために紙を使え、と言ったばかりですから」
友莉亜が言う。
「誰か、ちゃんと聞いてたんだね」
泰雅は返事の代わりに、会議室の窓を少し閉めた。
夜気はまだ冷たい。今日のような日は、余計にそう感じた。




