第5話 包丁は嘘をつかない
翌朝、徳札係の会議室には、昆布と煮干しの匂いを服にしみこませた男が現れた。
男は敷居をまたぐなり、深々と頭を下げた。
「人探しじゃない。人の腹の虫のほうを何とかしてほしい」
顔を上げたときには、もう眉間に二本、深い皺が寄っている。黒い前掛けの胸元には、料理屋《福くら》の染め抜きがあった。
泰雅は帳面を閉じた。
「腹の虫、ですか」
「うちの親方と弟子です」
男はそう言って、自分を指さした。
「親方は俺です」
会議室の隅で歯車を磨いていたあき子が、ぱちりと顔を上げた。
「自分で来たんだ」
「弟子に来いと言ったら、来る前に逃げる」
「逃げるんですか」
「今朝は裏庭の樽の陰に隠れていた」
徳信が吹き出した。桜都は笑うのをこらえるように唇を引き結び、友莉亜は早くも興味津々の顔をしている。
「何があったんです?」
泰雅が椅子をすすめると、親方――宗次は座る前に一度、頭を掻いた。
「味見だ」
「味見」
「うちの煮物は、客に出す前に俺が見る。それがうちの決まりだ。ところが昨日、鍋におたまを入れた跡が二つあった」
「弟子さんが味を見た、と」
「そうだ。しかも聞けば、前にもやっていたらしい」
宗次の声は怒鳴り声ではなかった。怒鳴り散らしたあとの、鍋底みたいな重さがあった。
「腕が上がりたいなら、言えばいい。見てやる。だが、黙って鍋に手を入れるのは違う。そう言ったら、あいつが『親方は客前に立つ人間しか見てない』って抜かしやがった」
そこで宗次はやっと、会議室にいる面々を見回した。
「……で、帰ってこない」
泰雅は、頭の中で店のつくりを思い出した。福くらは川沿いの二階建てで、一階の表が食事処、裏が仕込み場になっている。昼時になると、客の目に触れるのは親方と給仕ばかりだ。煮炊きの音や包丁の小気味よい響きは奥から聞こえるのに、それが誰の手かは見えにくい。
「とにかく様子を見に行きましょう」
泰雅が立ち上がると、宗次は助かったとも言いにくそうな顔でうなずいた。
「来るのか、そんな大人数で」
「困りごとを解くなら、変わった力は多いほどいいんでしょう?」
友莉亜が第3話で守衛に言われた呼び名をまねすると、徳信が肩を揺らす。
「異能力集団、出陣だな」
「その呼び名を本気で気に入らないでください」
泰雅はそう言いながら、自分も少し笑ってしまった。
福くらの裏口には、大根の皮が入った桶と、朝の水で濡れた石畳があった。
鍋の湯気はもう立っているのに、そこにいるはずの弟子の姿はない。
「新太」
宗次が呼ぶ。
返事はない。
「新太、出てこい」
少し間を置いて、米俵の陰から「……はい」と小さな声がした。
現れたのは、宗次より頭ひとつ分小さい青年だった。袖を肘までまくり、指先には細かい切り傷が幾筋もある。目を合わせた瞬間に逸らすくせに、逃げるための足にはまだ力を残している顔だった。
「おまえな」
宗次が一歩出ると、新太は反射的に一歩引いた。
その動きだけで、昨夜どんな言い合いがあったか、だいたい想像できた。
「今日は、人前で怒鳴らないでください」
泰雅が先に口を挟むと、宗次は不満そうに鼻を鳴らした。
「怒鳴らねえ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん」
あき子が繰り返す。
「信用できない響きだね」
新太は俵のそばに立ったまま、誰にも近づかなかった。
「勝手に味見したのは、悪かったです」
先に言ったのは、新太のほうだった。
「でも、あのままじゃ昨日の煮物、少しだけ塩が強かった。客に出る前に、確かめたくて」
「確かめたくて、黙って鍋を触ったのか」
宗次の声が低くなる。
「言ったら、また『まだ早い』って言うでしょう」
「早いから言うんだ!」
そこで泰雅が、はいそこまで、と両手を上げた。
桜都は静かに、新太の手元を見ていた。
「その切り傷、昨日今日のものではありませんね」
新太が慌てて袖口を下ろす。
「別に」
「あき子さん」
呼ばれて、あき子がすっと研ぎ場へ向かった。砥石の横に置かれた包丁を一本手に取り、刃を光へ傾ける。小刃の減り方を見て、次の一本、さらに次の一本と確かめた。
「親方」
「何だ」
「この三本、減り方が違う」
「違うのは当たり前だ。切るものが」
「違う違う。切る量の話。これ、朝の仕込みだけじゃない。夜明け前にも使ってる」
あき子は包丁の峰を指で軽く弾いた。
「それも、同じ人が、同じ角度で、何日も」
新太の喉が動いた。
泰雅は裏庭を見た。水桶のそばの木箱には、細く刻まれた葱の切れ端が少し残っている。客に出すには小さすぎる、練習の跡だ。
「夜明け前に、ここで練習してたんですね」
新太は観念したようにうつむいた。
「……親方が来る前に、少しだけ」
「少しだけで、その手になるか」
宗次の目が、ようやく怒りから外れた。代わりに、別の感情が混じった。驚きと、遅れてきた理解と、少しの苦さ。
「何で言わねえ」
「言ったら、仕込みの邪魔だって」
「邪魔だなんて」
「言わなくても、そういう顔してた」
宗次が黙る。
その沈黙は、新太を責めるためのものではなかった。図星を突かれた人間の沈黙だった。
店の表から、昼の支度をする給仕の声がした。
「親方ー、暖簾どうします?」
「……いま行く」
返事をしながら、宗次は動かなかった。
泰雅は、その場の空気を見回した。表には客の目に触れる場所があり、裏には火を見る人、水を替える人、昆布を引き上げる人がいる。だが、札に書かれるのも、客に礼を言われるのも、たいてい表の人間だ。
「親方」
「何だ」
「福くらの店先に、今日の煮物の札はありますよね」
「ああ。ある」
「誰が書かれていますか」
「煮物の名前と値段」
「作った人の名は?」
宗次が返事に詰まる。
泰雅は、あえてやわらかい声で続けた。
「客前に立つ人だけが店を回しているように見えるつくりだと、奥にいる人は、自分の手つきまで無かったことにされた気持ちになります」
「……」
「新太さんは、腕を試したかったんじゃない。自分がちゃんと、鍋のそばにいる人間だと確かめたかったんだと思います」
徳信が腕を組み、ずけずけと言った。
「裏で支える人間の名も札に書け」
「おまえは鍛冶屋だろ」
「鍛冶屋だから言うんだ。表に出るのは立派な刃物だけだ。でも、火を見たやつ、ふいごを踏んだやつ、鉄を運んだやつがいなきゃ、一本も立たねえ」
宗次は徳信をにらんだが、そのにらみ方にはもう棘がなかった。
桜都が筆を取り出した。
「掲示板に載せる文なら、短いほうが届きます」
「何を書く」
宗次が訊く。
桜都は少し考え、それからさらりと書いた。
『今日の煮物は、朝いちばんに火を見た人の勝ち』
宗次がその札を見つめたまま、何も言わない。
新太のほうは、顔を上げた。
「……それ、誰のことですか」
「今朝の福くらで、誰より先に火を見た人です」
桜都が答える。
「名を書き切らなくても、伝わることはあります」
札は柔らかな掲示板へ預けられ、店先の木札へ移された。
昼の暖簾が上がるころ、最初の客は常連の髭面の船頭だった。
「今日はやけに詩人みてえな札だな」
座るなり笑われ、宗次はいつものように「うるせえ、食え」と返そうとした。だが一拍おいて、新太へ顎をしゃくる。
「朝いちばんに火を見たのは、あいつだ」
新太が目を丸くする。
「ほら、椀を出せ」
「は、はい」
その返事は、朝より少しだけ腹から出ていた。
昼のあいだ、札を見た客が何人か同じように訊いた。
「誰が火を見たんだ」
「この兄ちゃんか」
「若いのに、出汁が落ち着いてるねえ」
そのたび新太はぎこちなく頭を下げた。宗次も、否定しなかった。
忙しさがひと段落した午後、あき子は研ぎ場で砥石を洗いながら言った。
「包丁は嘘つかないね」
「人はつくけどな」
徳信が言う。
「徳信さん、それ、いま必要ですか」
「必要じゃない。でも言いたい」
笑いが起きたところで、宗次がふいに奥から出てきた。手には、小さな木札が一枚ある。
「これ」
ぶっきらぼうに新太へ差し出す。
新太が受け取ると、そこには太い字でこう書いてあった。
『出汁の違いに気づいてくれて助かった』
字は正直に下手だった。宗次の字だ。
新太は札を見て、次に親方を見た。
「……これ、親方が」
「他に誰が書く」
「字、すごいですね」
「うるせえ」
宗次の耳がわずかに赤くなる。
「でも、鍋に手を入れるなら、次からは言え」
「はい」
「言ってから入れ」
「はい」
「おたまは一人一本だ」
「細かい」
「細かいところで味が決まるんだろうが」
そのやり取りを聞きながら、泰雅は胸の奥が少しほどけるのを感じた。
怒りは、わりと大きな音を立ててぶつかる。けれど、認めるほうは、案外小さい。小さいからこそ、ちゃんと拾わないと消えてしまう。
帰り際、宗次は会議室の入口で足を止めた。
「礼を言う」
「煮物の件なら、新太さんにも」
「言った」
「聞こえました」
「……そうか」
宗次は肩をひとつ鳴らし、それから桜都のほうを見た。
「札の文、余計な飾りがなくてよかった」
「ありがとうございます」
「あと」
宗次は少しだけ言いにくそうに続けた。
「うち、表の札を増やす。仕込みの名も書く」
徳信がにやりと笑う。
「最初からそうしろ」
「おまえは何で毎回、言い方が焚き火みたいなんだ」
「熱いって意味か」
「近寄ると焦げるって意味だ」
会議室に笑いが広がった。
その日の夕方、柔らかな掲示板の端に、新しい札が一枚増えていた。
宗次でも新太でもない字で、たった一行。
『煮物の大根が、今日はやさしかった』
誰が書いたのかはわからない。
けれど泰雅は、その札がまるで、鍋の底に静かに沈んだ出汁みたいだと思った。




