第2話 想いを届けて
戸を開けたのは、背の小さな老女だった。
目の縁はもう赤くなっている。けれど、泣いているというよりは、長年閉め切っていた蔵の戸を不意に開けられ、奥にしまっていたものをいきなり光へさらされたような顔だった。老女は戸板の文字と、外に立つ泰雅と桜都を見比べ、もう一度だけ、たしかめるように青白い字へ目を戻した。
「……今の、誰が書いたんだい」
泰雅はすぐには答えられなかった。役場の書記補としてなら、「不明です」が正しい。人としてなら、「僕にもわかりません」になる。どちらも嘘ではない。だが、今この家に必要な答えでもなかった。
助かったのは、後ろから届いたしゃがれ声だった。
「その字は、良助の字だよ」
杖をついた老女が、橋番小屋の裏手から現れた。役場の古記録を扱っていた元筆頭記録係、美汎である。町の年寄りの中でも、美汎は少し別格だった。昔話を語るときほど、目が今を切る。だから若い者は、だいたい勝手に背筋を伸ばす。
「美汎さん」
「その顔は、会議室の板を起こしたね、泰雅」
「はい……たぶん」
「たぶんで光る板なんて、ろくなものじゃないよ。で、起こしたんだね」
「はい」
「なら説明はあと。まずは家へ入りな」
押し切られる形で家へ上がると、囲炉裏のそばに老爺が座っていた。戸の文字を見たのだろう、膝に置いた手が小刻みに震えている。老女は何度も袖で目元を押さえながら、泰雅たちに茶を出そうとして、湯飲みをひとつ余計に持ち上げ、そこで動きを止めた。そこへ座るはずの人が、もう何十年もいないことを、体のほうが先に思い出したのだ。
「良助は、もう帰らなかったから」
美汎が、炭火を見つめたまま静かに言った。
昔、北の浜で争いがあり、真澄津からも若者が何人か駆り出された。その中の一人が、この家の息子の良助だった。帰還の報せは来ず、遺品もろくに届かなかった。残ったのは、出立の朝に美汎へ預けられた、封だけが整った紙束ひとつだった。
「役場に勤めてた頃、未達の手紙や届け損ねた礼状を預かるのも仕事でねえ」
美汎は火箸で炭を寄せた。
「良助は橋番の子だったから、親に格好つけた文を書こうとして、何度も書き損じたらしい。どれも途中で止まっていたよ。そりゃそうだ。十八の小僧が、親に何をどう礼すればいいかなんて、急には書けない」
老爺が、かすれた声で言った。
「あいつは、帰ったら橋板を打ち直すって言っていた」
「ええ」
「わしの足が遅くなったから、自分がやると」
「ええ」
「一度も礼なんぞ言わんでよかったのに」
老女のすすり泣きが、囲炉裏の火より細く続いた。
桜都は、膝の上に置いた手をきゅっと握っていた。彼女の目は戸の方を見ているのに、視線はもっと遠くを見ているようだった。泰雅は何を言えばいいかわからず、ただ湯飲みの位置をそろえた。そろえたところで、良助は帰らない。けれど、何もしないよりはましだった。
「その紙、見せてもらえるかい」
美汎に言われ、桜都は文箱から残りの紙を取り出した。どれも書きかけだった。『父上へ』『橋のことは』『母上、漬物を――』。途中で消えた言葉ばかりだ。
美汎は一枚一枚を見て、小さくうなずいた。
「会議室の板は、柔らかな掲示板だよ。昔は、こういう“言えなかったこと”を預かって、しかるべきところへ届ける道具だった」
「届ける……?」
泰雅が聞き返すと、美汎は鼻で笑った。
「今の役場は、紙をしまうことしか知らないからね。あの板の本来の仕事を忘れてる」
桜都が身を乗り出した。
「やはり、古記録にあった徳札の仕組みとつながっているんですね」
「つながってるとも。感謝、願い、詫び、見送った言葉。町でこぼれたものを、拾ってつなぐ。それが真澄津のやり方だった」
「では、灯籠行列も」
「その続きだよ」
泰雅は、囲炉裏の火を見た。朝に見た募集要項の白い紙と、この家の戸に浮かんだ青白い文字が頭の中で並ぶ。どちらも紙だ。どちらも字だ。なのに片方は、人を選り分け、片方は、帰れなかった息子の礼を四十年越しに届けた。
同じように見えるものが、どうしてこんなに違うのだろう。
「美汎さん」
泰雅は、思ったまま口にした。
「町に必要なのは、顔を測る板じゃなくて、あの掲示板なんじゃないですか」
美汎は火箸を止めた。桜都もこちらを見る。
「やっとそこまで来たかい」
美汎は言った。
「遅いけど、来ないよりはましだね」
昼すぎ、役場へ戻ると、西会議室の前にはもう人だかりができていた。噂は早い。橋番の家に光る文字が出た、死人の手紙が届いた、役場が霊を呼んだ、神守社の娘が役人を泣かせた、噂は人の口を渡るあいだに勝手に太る。
守衛の源兵衛が腕を組んでいた。
「泰雅、お前、今度は何をやらかした」
「まだ何も確定してません」
「確定してない騒ぎがいちばん面倒なんだよ」
西会議室に入ると、柔らかな掲示板は朝と同じように静かだった。だが表面に、かすかに指跡のような波が残っている。泰雅がそっと触れると、体温を返すように少しだけ沈んだ。
「生きてるみたいですね」
思わず言うと、桜都が真顔で答えた。
「生き物扱いすると、あき子が喜びそうです」
「誰ですか、あき子」
「役場地下で古い絡繰をばらしては怒られている人です」
「怒られて当然では」
「でも直します」
「余計に怖い」
桜都は文箱から小さな木札を取り出した。片面は白木のまま、片面に細く罫が引いてある。
「徳札です。昔の形式をまねて作りました」
「こんなに早く?」
「昨夜のうちに」
「まだ板が動く前ですよね」
「動いても動かなくても、必要でしたから」
「用意がいいというか、気が早いというか」
「夏至まで四十日です」
またそれだ、と泰雅は思った。だがそのせっかちさに、今は少し助けられている。
桜都は机の上に木札を並べた。
「礼を言いたかった相手、詫びたかった相手、助けられたこと。上手に書けなくても、名前だけは間違えずに書く。そうして板が受け取れるか試します」
「誰が持ってくるんです」
「集めます」
「誰が」
「私たちが」
私たち、と言われてから、泰雅はようやく自分が巻き込まれていることをはっきり自覚した。
「僕もですか」
「今さら違うと言いますか」
「言えない流れですね」
「言えません」
会議室の外では、人々がひそひそと噂していた。役場書記補と神社の娘が古板を動かしただの、橋番の家に手紙を飛ばしただの。だが西会議室の中だけは、古い板と新しい木札と、妙に張り切った桜都のせいで、噂より少しだけ先へ進んでいた。
最初に札を書いたのは泰雅だった。
『橋番小屋の干魚を、ちゃんと届けられず、すみません 泰雅』
「それ、礼じゃなくて詫びですね」
「詫びも必要でしょう」
「必要です」
「じゃあいいじゃないですか」
札を板へ押しつけると、やわらかな表面がわずかに沈み、木札を受け取った。青い筋は走らなかった。かわりに、掲示板の端が小さく震え、机の上の残りの札がからりと鳴る。
「今のは」
「受理、でしょうか」
「役所みたいな言い方をしないでください」
「僕、役場勤めなので」
「今だけは徳札係です」
「まだ係になってないです」
「なります」
「決定なんですね……」
決定らしかった。
その日の夕方、橋番小屋の前を通ると、老女が干魚を二枚、火であぶっていた。泰雅に気づくと、笑って一枚を掲げた。
「昼のうちに届いたよ。ありがとう」
たったそれだけの言葉で、胸の中のどこかが、板に触れたときみたいに少しだけ沈んだ。
役場へ戻ると、西会議室の机の上に、いつの間にか札が三枚増えていた。
『豆腐桶を一緒に洗ってくれて助かった』
『雨戸を閉めてくれた娘へ』
『今朝、火打石を貸してくれたお侍さんへ』
字はばらばらで、文の長さもばらばらだ。きれいでもない。整ってもいない。
けれど泰雅は、朝見た募集要項より、ずっとましだと思った。




