第1話 会議室の片隅にある、やわらかすぎる板
真澄津の朝は、潮の匂いから始まる。
海から上がった風が坂の町をなめ、山から降りた霧が石段のあいだにたまるころ、役場の裏口にはいつものように木箱が三つ、帳面が二冊、頼んでもいないのに届いた干魚の包みが一つ、きっちり並んでいた。
泰雅は裏口の戸を半分だけ開けると、干魚の包みを見て眉を寄せた。
「違う。これ、うちじゃない」
包みの裏に書かれた墨のにじみを見て、町外れの橋番小屋宛てだと当たりをつける。帳面を小脇に抱えなおし、戸を閉め、橋番小屋へ向かう途中で、石段に片足を取られた子どもを支え、桶をひっくり返した豆腐屋の娘と一緒に水をくみ直し、役場へ戻る頃には、出勤の鐘が二度鳴っていた。
「また始業前に一仕事した顔だな」
受付の老役人に言われ、泰雅は曖昧に笑った。顔に書いてあるなら、いっそ手当でも出してほしいと喉まで出かかったが、そんなことを言う手間で机を拭いたほうが早い。
その日、役場三階の西会議室には、夏至の灯籠行列の案内役を決めるための貼り紙が出ることになっていた。
泰雅は書記補として、その文面を清書し、画鋲の数を数え、貼る位置まで整えてから、最後に一歩下がって確認した。
『今年度 夏至灯籠行列 案内役募集
応募資格 顔面偏差値六十八以上、姿勢点良好、声量安定、礼節査定可』
紙の白さばかりが、朝日にきらりと明るかった。
「……今年も、これか」
つぶやいたところで、誰かが聞いてくれるわけでもない。泰雅は肩の高さを左右そろえ、机の端を指先でまっすぐに直した。文句を言う暇があるなら、次の書類に印を押す。そういうやり方で、だいたいの朝は切り抜けられる。
だが、その日は切り抜けられなかった。
廊下の向こうから、下駄の音がまっすぐこちらへ向かってきたのである。迷いのない音だった。役場に来る人間の足音はたいてい、入口で一度鈍る。窓口を探したり、誰に話しかけるべきかを考えたりするからだ。けれどその音は、一度もためらわず、西会議室の前でぴたりと止まった。
「その貼り紙、取り下げてください」
泰雅が振り向くと、細い文箱を抱えた若い女が立っていた。薄青の小袖は地味なのに、襟元も帯も、塵ひとつ許さぬ整い方をしている。眉を吊り上げているわけではないのに、こちらの背筋まで勝手に伸びるような目つきだった。
「ええと、どちら様で」
「神守社の桜都です」
「神守社の」
「はい。本来の先導役は、鑑顔鏡の数値ではなく、一年の徳札をもとに選ばれていました。古記録にもあります。なのに今は、立って歩く順番まで顔の点で決めている。しかも、役場がそれを正式な募集要項として貼り出す。見過ごせません」
言葉が一つ一つ、机の上に置かれていくようだった。乱暴ではないのに逃げ場がない。
泰雅は貼り紙と桜都を見比べた。
「見過ごせないお気持ちは、わかります。ただ、これは僕が決めた文面ではなくて」
「では、決めた人を呼んでください」
「朝一番から会議に入っています」
「なら、私はここで待ちます」
「ここは会議室で」
「会議をする場所でしょう。ちょうどいいです」
理屈の通し方が正面突破すぎる。泰雅は内心で額を押さえたくなったが、実際に押さえると負けた気がするのでやめた。
「せめて、お話だけ先に伺います」
「伺うだけで終わらせないでください」
「努力はします」
「努力では足りません」
「朝から厳しいですね」
「夏至まで四十日です。のんびりしている暇がありません」
そう言って桜都は西会議室へ入っていった。役人でもない人間が、当然のように会議室へ入る光景はなかなか強い。泰雅も慌ててあとを追う。
西会議室は、普段は使われない部屋だった。窓際に机が寄せられ、古い椅子が壁に重ねられ、奥には布をかぶせられた大きな板が一つ、立てかけられている。柔らかな掲示板。そう呼ばれていたらしいが、泰雅が知る頃には、ただの置き場に成り果てていた。
桜都は文箱を机に置き、巻物をするすると開いた。
「これを見てください。三十五年前の夏至祭記録です。『先導役は、もっとも多く感謝を受けし者の筆頭とする』。こちらは六十年前の規定書。こちらも同じ。見目や声を測るなんて、一言もありません」
「古い制度が、そのまま今も正しいとは限らないでしょう」
「正しいかどうかを決める前に、なかったことにするのは違います」
「僕はなかったことには」
「今、その貼り紙を貼りました」
「貼りましたけど」
「貼りましたね」
「はい」
「つまり、加担しています」
「そこまで言います?」
「言います」
言葉が詰まり、泰雅はとりあえず椅子を引いた。座って話せば、多少は穏やかになるかもしれない。だが桜都は座らず、巻物の端を押さえたまま、こちらを見た。
「顔の点で先頭に立つ人を決めたところで、町は守れません」
「守るって、大げさな」
「大げさではありません。灯籠行列は、ただ並んで歩くものではなく――」
そのとき、机の端に置いた銅の押しピンが、ころりと転がった。
泰雅は反射的に手を伸ばした。落とせば床板に傷がつくし、探すのも面倒だ。だが、指先が押しピンに触れるのと、桜都の文箱から薄い紙が一枚、ふわりと滑り出すのは同時だった。
「あ」
「え」
紙は押しピンに引かれるように飛び、布の掛かった板へ貼りついた。
次の瞬間、布の下が、柔らかく脈打った。
泰雅は固まった。桜都も固まった。板の表面が布越しにふくらみ、沈み、呼吸するようにうねる。押しピンの刺さった場所から、青白い筋がじわじわと広がっていった。
「何ですか、これ」
「こちらが聞きたいです」
「勝手に動く古道具を会議室に置かないでください」
「僕が置いたわけじゃないです!」
布の端がすとんと落ちた。
現れた板は、思っていたよりずっと妙だった。木でも紙でもない、灰青色の面。干した餅のようにも見えるのに、光を受けると水面にも見える。指で押せば沈みそうなやわらかさをしているのに、立てかけた板の形を保っている。
そこへ貼りついた紙には、かすれた字が並んでいた。
『父上 母上
無事に戻りましたら 橋のたもとで待っていてくださることに
礼を――』
そこで文は切れている。書きかけの礼状だった。
桜都の顔色が変わった。
「それ……文箱の底に入っていた紙です。古文書に挟まっていたから、ただの書き損じかと」
「動きましたよね」
「動きました」
「光りましたよね」
「光りました」
「僕の見間違いでは」
「ないです」
その途端、板がもう一度脈打った。紙はすうっと板の中へ沈み、字だけが浮かび上がる。青白い光は、窓の外へ細く伸びた。
まるで、どこかへ向かう道筋みたいに。
泰雅と桜都は顔を見合わせた。
「……追いますか」
「追うしかないでしょう」
二人はほとんど同時に廊下へ飛び出した。
階段を駆け下り、裏口を抜け、坂道を折れ、石橋の方角へ向かう。青白い光は、見失いそうになるたびに、霧の中で細くまたたいた。橋のたもとには、古い橋番小屋と、その脇に小さな家が一軒ある。老夫婦が暮らす家だと、泰雅は知っていた。さっき干魚を届けるはずだった先でもある。
引き戸の前まで来たところで、光はふっと消えた。
かわりに、戸の板に青白い文字が浮かんだ。
『父上 母上
無事に戻りましたら 橋のたもとで待っていてくださることに
礼を言わせてください
寒い日は火鉢を近くへ
足を悪くされませんよう
必ず帰ります
良助』
戸の向こうで、何かが落ちる音がした。




