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顔面偏差値で役目が決まる都で、僕らは徳札を復活させる  作者: 乾為天女


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第14話 背中で支える人たち

 西会議室の扉が開いたとき、中の空気は驚くほど冷えていた。


 布を掛けられたままの柔らかな掲示板が、部屋の奥で青白く脈を打っている。生き物の寝息みたいに、ゆっくり、けれど切実に。床板の隙間からは白い靄がのぼり、机の脚をなめていた。


 「布、取ります」

 泰雅が言うと、桜都はもう結び目へ手をかけていた。

 ばさりと落ちた布の下から、灰青色の板が姿を現す。

 押せば沈みそうな表面には、細かな光の筋が走っていた。受け取りたいのに、足りない。そんなふうに見えた。


 「裏手の受け口、つながってるはず!」

 あき子が木枠を抱えて飛び込み、床際へしゃがみこんだ。

 「徳信! そっち押さえて!」

 「おう!」

 いつの間に戻ってきたのか、徳信の袖は煤と泥で真っ黒だった。橋の灯籠台を立て直して、そのまま走ってきたのだろう。

 りゅうのすけも息を切らせて地図を広げる。

 「逆流の筋、北から南へずれてる。今ならこの管がいちばん吸う!」

 「言い方、物騒」

 友莉亜が言いながら、濡れた髪を後ろへ払った。町の人を逃がしてきたのだろう、袖口から水が落ちている。

 「外、どうですか」

 泰雅が問う。

 「怖い顔の人だらけ。でも、逃げるだけじゃなくて、箱の紙を持ってくる人もいる」

 友莉亜は笑った。

 「走りながら『これも!』って渡された」


 そう言って差し出された札は、折り目だらけだった。

 『橋で手を貸してくれた人へ』

 『露店の火を消してくれた人へ』

 『子どもを抱いてくれた娘さんへ』


 こんなときでも、人は礼を書くのか。

 泰雅は一瞬だけ、喉の奥が熱くなった。


 「受けます」

 彼は札の束を両手へ広げた。

 「僕、受け取ります」


 西会議室の机が片づけられる。

 札を積む場所、開いて読む場所、掲示板へ触れさせる場所。泰雅は無意識のうちに動線を作っていた。机の角を二寸ずらし、木箱の置き場所を決め、あき子の作業の邪魔にならないよう床へ紙を広げる。いつもの、目立たない手順だ。けれど今日は、その目立たない手順が、部屋の全員の動きを速くした。


 「泰雅」

 桜都が呼ぶ。

 「祝詞を始めます。あなたは受け取り続けて」

 「はい」

 「途中で立ち止まらないでください」

 「そっちも」

 「止まりません」


 桜都は掲示板の前へ立った。

 いつものきちんとした声より、ほんの少し低い。けれど町のざわめきに負けない通り方をしていた。


 「上手に書けなくてもかまいません。

 きれいな文でなくてかまいません。

 助かったことを、ひとつ置いていってください。

 誰かの暮らしが少し楽になった、その事実を、ここへ渡してください」


 昔の祝詞ではない。

 けれど、今の真澄津の耳には、いちばん届く言葉だった。


 最初の束を、泰雅が掲示板へ当てる。

 柔らかな表面は、紙の角へ触れた途端、すうとそれを吸い込んだ。水面へ落ちるわけでも、火に焼かれるわけでもない。ただ文字だけが、青い筋へほどけていく。


 「来た!」

 りゅうのすけが叫ぶ。

 「流れが変わった!」


 床下で、ひゅう、と細い風が鳴った。

 会議室の外ではまだ悲鳴もする。だが、消えかけていた結界灯のひとつが、窓の向こうでふっと持ち直した。


 「もっと!」

 あき子が羽根車を回す。

 「まだ足りない!」


 徳信が梃子を押し込む。ごつい腕の筋が浮き、木枠が軋む。

 「持ってけ!」

 友莉亜は廊下へ飛び出し、駆けこんできた町人から札を受け取る。

 「書ける人、ここで名前だけでも! 字が出ないなら言って、私が書く!」


 すると、戸口のあたりで年寄りの男が震える声を出した。

 「橋板に灰を撒いてくれたの、誰だったかわからん」

 「どこで?」

 友莉亜が聞く。

 「朝の坂の手前だ」

 「何時ごろ?」

 「鐘が一つ鳴る前」

 泰雅の手が、ふと止まりかける。

 だが桜都の声が続いている。

 あき子の羽根車も回っている。

 徳信の梃子もきしんでいる。

 りゅうのすけは流れを叫び続けている。


 泰雅は止まらなかった。

 止まらず、札を受けた。

 「場所と時刻だけでも書きましょう。誰だったかは、あとでたどれます」


 人が増える。

 町のあちこちの箱を抱えて、菓子屋の主人が来た。橋番小屋の喜助が濡れた足袋のまま飛び込んできた。学問所の教師が、子どもたちに書かせた札の束を抱えて息を切らせる。炊き出し場からも、祭具庫からも、橋のたもとからも、人が札を持って集まってくる。


 誰も晴れ着ではない。

 誰も舞台の真ん中へ立つ顔をしていない。

 袖を濡らし、煤をつけ、髪を乱し、息を切らしている。けれど、その手にある紙だけは落とさなかった。


 泰雅は受け取り続けた。

 札を開き、名前を確かめ、似た内容を揃え、破れた端を重ね、掲示板へ渡す順を作る。

 彼が一枚でも迷えば、後ろが詰まる。だから迷わない。どんな札にも、受ける場所を作る。表へ立たなくてもいいと自分へ言い続けてきた手が、いま初めて、町の真ん中で必要とされていた。


 窓の外の青白い灯が、もうひとつ戻る。


 「まだだ!」

 碩樹が戸口で怒鳴った。

 役場の門を開いたまま、彼自身が人をさばいていた。

 「橋の南側が薄い! そっちの札を優先しろ!」

 「南側の流路はこっち!」

 りゅうのすけが床の図を叩く。

 「じゃあ、南から来た札をこっちへ回してください!」

 泰雅が言う。


 その声に、碩樹が一瞬だけこちらを見た。

 すぐ頷き、外へ向き直る。

 「聞いたな! 橋南の札は右へ回せ!」


 町政の数字しか見ないと言われた男が、いまは誰より大きな声で人を通していた。

 友莉亜がそれを見て、くすりと笑う。

 「やっと現場向きの顔した」

 「今それ言う?」

 あき子が言う。

 「こういうときだから言う」


 桜都の祝詞が、さらに深くなる。


 「立派な人の言葉だけでは足りません。

 名のある人の働きだけでも足りません。

 戸を押さえた手。

 火を見た目。

 重いほうを持った肩。

 そういうものを、町は忘れてはいけません」


 掲示板の青が、部屋いっぱいに広がった。

 床下の星霧が白く脈を打ち、会議室の窓がかすかに鳴る。外では、消えていた結界灯が一つ、また一つと戻っていく。海からの逆風が弱まり、白い靄の高さが膝から脛へ、脛から足首へ下がった。


 「持ち直してる!」

 りゅうのすけの声がひっくり返る。

 「本当に! 戻ってる!」


 最後に、橋番小屋の喜助が胸元から一枚の札を出した。

 「これ、わしは書くのが遅れてな」

 ぶっきらぼうに差し出された紙は、字が大きかった。


 『毎朝、間違った荷をちゃんと橋まで持ってきてくれる若い役場の子へ。

 あの子が来る日は、橋番小屋の朝が少し早く回る。助かっておる』


 泰雅は、そこで初めて息を詰めた。

 朝の干魚の包み。石段の子ども。豆腐屋の水桶。誰にも見られていないと思っていた細かな手間が、こんなところへ来ていた。


 「泰雅」

 桜都が呼ぶ。

 彼女は掲示板の前に立ったまま、こちらだけをまっすぐ見ていた。

 「それも、渡してください」


 泰雅は頷いた。

 手が少し震えたが、札は落とさなかった。

 その一枚を掲示板へ当てると、板はほかのどの札より静かに、しかし深くそれを受けた。


 次の瞬間、役場の外で大きな歓声が上がった。


 窓の向こう、真澄津じゅうの結界灯が、いっせいに青白く灯り直していた。

 橋の欄干も、海へ続く坂道も、神守社の石段も、さっきまで沈んでいた町の輪郭が、やわらかな光に縁取られていく。


 誰かひとりが前へ出たからではない。

 誰かひとりが美しかったからでもない。

 背中で支えてきた人たちの札が、町を持ち上げたのだ。


 泰雅は、その場で膝から力が抜けそうになった。

 だが崩れる前に、徳信の太い手が肩をつかむ。

 「倒れるな。まだ終わってねえ」

 「はい」

 「返事ちっさい」

 「はい!」


 友莉亜が廊下から顔を出す。

 「外、すごいよ! みんな泣いたり笑ったりしてる!」

 「どっちかにしてください」

 「無理!」


 桜都は掲示板へ一礼し、それから部屋じゅうを見渡した。

 「今夜の先頭は、もう決まっています」


 誰もすぐには意味を取れなかった。

 だが彼女は静かに続けた。

 「町を支えた人たちが、灯を持って歩けばいい」


 碩樹が戸口で聞いていた。

 濡れた前髪をかき上げ、苦い顔のまま、それでもはっきり言う。

 「……来年からの規定、書き直す」


 友莉亜が目を丸くする。

 「来年から?」

 「今夜の混乱で終わらせないためだ」

 碩樹は泰雅を見る。

 「感謝を書かれた数を基準にする。ひとりへ背負わせない。十人並べば、見栄えしか見ない仕組みも崩れる」

 「十人」

 りゅうのすけが繰り返す。

 「筆頭ひとりではなく?」

 「今の町には、そのほうが合う」

 桜都が頷く。

 「そうですね」


 その夜遅く、真澄津の人々は、急ごしらえで選ばれた十の灯籠を手に、橋から神守社までを静かに歩いた。

 名前の知られた者もいれば、ほとんど顔を知られていない者もいた。

 橋板へ灰を撒いていた老人。

 炊き出しの鍋を見ていた女。

 学問所の掃除当番の少年。

 祭具を黙って運んだ男。

 橋のたもとで迷子の手を引いた娘。

 そして、朝の間違った荷を橋まで届けた書記補も、その列の端へ半ば押し込まれるように入れられた。


 「なんで僕まで」

 泰雅は本気で困ったが、友莉亜が後ろから背を押す。

 「札、何枚来てると思ってるの」

 「数えないでください」

 「数えたのはりゅうのすけ」

 「言わなくていい」


 十の灯が並ぶと、行列はこれまでとまるで違う顔になった。ひとつの整った姿を遠くから眺める列ではない。町のあちこちで手を使ってきた人たちが、それぞれの歩幅で、それでも同じ明かりを持って進む列だった。沿道の人々は、誰がいちばん見栄えがいいかではなく、あの人は橋の人だ、あの人は炊き出し場の人だと囁き合った。ようやく町が、自分を支えてきた手の名を口にし始めたのだ。


 隣を歩く桜都は、灯籠の光を受けて少しだけ笑っていた。

 前だけを見て歩くその横顔を見て、泰雅は何も言えなくなる。

 町はまだ完全には落ち着いていない。片づけも、規定の書き直しも、揉め事の後始末も残っている。

 それでも今夜だけは、足もとの石畳がたしかにあたたかかった。



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