第13話 夏至の夜、町の灯が消える
夏至の当日、真澄津は朝から落ち着かなかった。
海側の道には見物の屋台が並び、役場前の広場には色紙を貼った灯籠が積まれ、橋のたもとでは子どもたちが流し灯籠の順番で口げんかをしていた。町の者は誰もが忙しそうで、どこを歩いても袖が触れそうになる。笑い声も、呼び込みの声も、太鼓の試し打ちもちゃんと響いている。なのに胸の底に沈んだ重さだけは、誰の足取りにも薄く絡みついて離れなかった。
祭りの顔はできている。だが、その内側で支えるものが足りていない。そんな不穏さが、朝の潮風にまで混じっている気がした。
西会議室の赤札は、まだ下がったままだった。
泰雅は夜明け前に五つの投書口を回った。神守社、橋番小屋、菓子屋の軒先、鍛冶場の壁、学問所の廊下。どの箱にも、昨夜のうちに新しい札が増えている。
眠れなかったのだろう、墨の濃すぎる字があった。
仕事の合間に急いで書いたのだろう、炭で走り書いたような札もあった。
小さな手で一生懸命書いたのがわかる、曲がった仮名も混じっていた。
「今日、全部持っていきます」
神守社の石段で、桜都が言った。
白木の箱を抱え上げる腕に、迷いはない。
「全部、という顔ですね」
泰雅が言うと、桜都は箱の重さを測るように持ち替えた。
「そういう顔がありますか」
「あります。今のは、十人分くらいの覚悟を一人で持つ人の顔です」
「褒めていますか」
「心配しています」
「なら、少しだけ正しいです」
そこへ友莉亜が駆け込んできた。髪紐がいつもより片方だけ下がっている。
「橋のほう、朝からすごい人! 見物客が増えてる。看板商会、露店まで出してる!」
「今日は稼ぎどきだからな」
徳信が鍛冶場の箱を肩へ担いだ。
「でもなあ、あの連中、灯籠の数より札の数を気にしたことなんか一回もなさそうだ」
「数なら今日はこっちも負けてない」
りゅうのすけが胸に帳面を抱え、鼻息を荒くする。
「朝の時点で百九十三枚。しかもまだ回収分がある」
「数えたんですか」
「当然」
「当然じゃない人もいるんですよ」
あき子が木箱の蓋を確かめながら言った。
「数えるのはいいけど、送るほうが先。今日は途中で詰まったら終わりなんだから」
物置へ戻ると、会議室の床下へ札を送るための仮設の装置が、昨夜よりひと回りだけ頼もしくなっていた。
徳信が補強した枠木。
あき子が直した羽根車。
りゅうのすけが古語の印をふりがなつきで書き直した流路図。
友莉亜が町のあちこちで拾ってきた報せの紙。
桜都が清めた小さな塩皿と水差し。
泰雅が夜更けまで書き込んだ回収表。
どれも立派とは言いがたい。だが、誰が見ても手が入っていた。
誰かが本気で間に合わせようとしている場所の顔つきをしていた。
昼を過ぎるころ、碩樹が物置の戸を開けた。
顔色がひどく悪い。評定からそのまま戻ってきたのだろう。
「看板商会は、予定どおり顔面偏差値上位者を先導へ立てるよう押してきた」
「押すでしょうね」
友莉亜が腕を組む。
「祭礼方も、今さら変更すれば混乱すると」
「それも、そうです」
泰雅が答えた。
「今さら変更したら、町中がひっくり返る」
「だから、そのまま始まる」
碩樹は短く言った。
「ただし」
みんなが息を止める。
「西会議室の扉を開けるかどうかの判断は、結界灯の状態が崩れたときに限り、現場で俺が下す」
あき子が眉を上げた。
「崩れたら、って」
「崩れない見込みは」
桜都が問う。
碩樹は一瞬だけ目を伏せた。
「正直に言う。薄い」
物置の空気が沈んだ。
徳信の手が、箱の角をぎりと鳴らす。友莉亜が口を開きかけて閉じる。りゅうのすけは帳面の端を握りしめたまま、何か計算するように視線を走らせていた。
泰雅は、胸の奥が嫌なふうに冷えるのを感じた。
「じゃあ、今の行列は」
「形だけの可能性が高い」
碩樹は言い切った。
「出る人間に罪はない。だが、灯を支えるだけのものが足りていない」
桜都が、小さく息を吸う。
「足りていないなら、足します」
「そのために来た」
碩樹は泰雅を見た。
「札を持って待て。異変が出たら、俺が門を開ける」
言い方はいつもどおり硬いのに、その声の底にはもう迷いがなかった。
泰雅は深く頭を下げた。
「はい」
夕刻、町じゅうの軒先へ灯りがともった。
海へ向かう坂道に青白い火が連なり、川面へ流される前の灯籠が、薄い紙越しに人の顔を照らす。見物客は多く、露店の呼び声も高い。飴炊きの鍋がぐつぐつ鳴り、焼き魚の匂いが風に乗った。
顔面偏差値上位者たちは、色鮮やかな衣をまとって並んでいた。
どの顔も整っている。背筋もよく伸びている。彼ら彼女らは、自分に与えられた役目を果たそうとしているだけだ。
泰雅はそれを見て、嫌うべき相手を間違えるなと自分へ言い聞かせた。
前へ立つ人ではない。
前へ立つ人しか見ない仕組みのほうだ。
行列が進み始めた。
笛の音が鳴り、太鼓が打たれ、広場の灯がひとつずつ持ち上がる。
最初のうちは、何もおかしくなかった。
異変が出たのは、橋へ差しかかったあたりだった。
結界灯のひとつが、すうと細くなった。
消えかけの蝋燭みたいに、青い火が痩せる。
それを見て「あれ」と誰かが言うより早く、二つ目が弱った。三つ目は、揺れて、消えた。
ざわ、と空気が変わる。
川面の灯籠が不自然に同じ方向へ流れ、海から吹くはずの風が、坂の上へ逆巻いた。
白い靄が石畳を這う。足首の高さから立ちのぼったそれは、井戸の底をひっくり返したような冷たさを持っていた。
「星霧の逆流だ!」
りゅうのすけが叫ぶ。
見物客がいっせいに声を上げた。子どもが泣き、大人が後ずさりし、露店の皿がひっくり返る。橋の上では灯籠持ちの列が乱れ、前にいた若者が顔色をなくして立ちすくんだ。
「下がってください!」
泰雅は反射で叫んでいた。
「押さないで! 橋板、滑ります!」
徳信がすぐに橋の欄干へ駆け、傾いた灯籠台を肩で支える。友莉亜は泣いている子どもを抱き上げ、母親へ押し返した。あき子は露店の火鉢を蹴り寄せて火を消し、りゅうのすけは白い靄の濃い筋を追って流れを見ている。桜都は神守社の方向を一度だけ見て、それからこちらへ駆けた。
「まだ間に合います」
彼女が言う。
「会議室へ」
そのとき、役場側の門で声が上がった。
「西会議室を開けろ!」
碩樹だった。
祭礼方の役人が何か言い返している。だが碩樹は一歩も引かなかった。
「責任は俺が取る。開けろ。今すぐだ!」
門の閂が外される音は、太鼓の音よりはっきり聞こえた。
泰雅は札の箱を抱え直した。
「行きます!」
「行け!」
徳信が橋の上から怒鳴る。
「こっちは立て直す!」
「子どもたち、私が逃がす!」
友莉亜も応じる。
「紙、落とさないでよ!」
「落としたら拾って」
あき子が泰雅へ木枠を押しつけた。
「送風絡繰、会議室でつなぐ!」
泰雅は桜都と並んで、役場へ駆けた。
背中では、結界灯がもうひとつ消える音がした気がした。
町の灯が、夜の始まりより先に、消えようとしていた。




