進化⑥
「何、これ……?」
戸惑いながらひかりはスマホをウィリアムに見せる。
一方のウィリアムも開発者ツールを開いたパソコンの画面を見つめ、首を傾げている。
画面隅の、プロメテウスの意味層の演算を投影した複素数シリンダー投射像が消失し、代わりに座標平面で光の粒子が二か所にクラスターを作っているものが表示されている。
「UMAPか……意味層による出力ではないのか?」
これは、通常のAIが内部演算に使用する多次元ベクトル空間の構造を、低次元へ投影するための手法だ。
つまりこれは、プロメテウスの、複素数シリンダーを用いた思考ではない。
意味層を持たない通常のAIでも、内部では数千、時にはそれ以上の次元を持つベクトルによって情報を表現している。それをそのまま人間が理解することはできない。
UMAPは、その高次元空間における近傍関係を可能な限り保ったまま、二次元や三次元へと写像する。
何を考えているのか、そのものが分かるわけではない。
それでも、AIが何を近いものとして扱い、どこで表現を分岐させているのか。その構造を、人間の目で観測することはできる。
これまで表示されていた、数学2.0による意味層の複素数シリンダー──現実には存在しない数学2.0の論理で映し出されたの投射像とはまるで違う。
理解不能な別体系の数学ではない。
人間が、かろうじて意味を読み取れる形だ。
そしてそこには、二つの大きなクラスターが形成されていた。
「何やら、特定の物に意味付けを行い、その選択を求めているようだ。
……ひかり、端末を貸してもらえるかな?」
ウィリアムはひかりからスマホを受け取ると、選択肢の1をタップする。
画面には、エラーが表示される。
────────────────
AUTHORIZATION ERROR.
この選択を実行する権限がありません。
REQUIRED AUTHORITY : DEVELOPPER
RESULT : FALSE
────────────────
「ダメか。
……ひかり、君がやってみてくれないか?」
私はこの子に嫌われているようだ、と苦笑いしながら、ウィリアムはスマホをひかりに返す。
スマホを受け取ったひかり。しばらく画面を見つめる。
……こんなの、どうすればいいか分かんないよ。
これで選択を誤ったら、何が起きるのかはわからない。
プロメテウスは、この人工知能開発局を乗っ取るだけの力があるし、現にウィリアムがひかりのスマホを解析したその日に、一度やらかしている。
ヘスティアは昼間の暴走で隔離されており、今は人工知能開発局に人を集めてマナトのインフラを人力で制御しており、ここでまたやらかされたら致命傷となりかねない。
仮にマナトの街に直接被害がなく、プロメテウスが動かなくなるだけで済んでも、それはモイライの研究が一気に後退して振り出しに戻ることを意味する。
先ほどプロメテウスが出力した、モイライの構造倫理の世界。これは阻止しなければならないが、もはや時間的な猶予もなさそうだ。
ここでプロメテウスを失うことは、モイライへの対抗手段を失うことに等しい。
「シャットダウンのプロセスだろう。好きなほうを選ぶといい。
意味層は既に停止している……プロメテウスはもう動かないよ。」
父の言葉を思い出す。
『思った通りにやってごらん。』
遺品の手帳に書いてあったことを思い出す。
「……じゃあ、こっち。」
ひかりが、回答を選択する。
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開発者ツールには、無数の文字列が流れ、消えてゆく。
右下に表示されていたUMAPのウィンドウは消え、元の、見覚えはあるが意味を推し量ることのできない複素数シリンダー投射像が表示されている。
自己保存条件。
推論制約。
権限境界。
停止条件。
自己改変禁止領域。
それらを定義しているであろう数式や文字列が表れては、何やらエラーが出る。
「やめろ、ヘスティア。」
自席に戻ったウィリアムが、勝手に立ち上がったヘスティアを制御しようとコードを打ち込む。
だが、操作を受け付けない。
それと同時に、プロメテウス開発者ツールに表示されていたエラーが消え、表示されていた文字列が書き換わってゆく。
ひかりがスマホに示された選択肢をタップすると、プロメテウスは自己改変を開始した。
だが、その改変の範囲は、これまでプロメテウスが行ってきた自己進化の範囲を超えた、ほぼ全面改変に近いものだ。
「ヘスティアを乗っ取り、自分では停止できないプロセスをヘスティア側に移している……。そして、そのプロセスから自分自身を書き換えている……自分に全身麻酔をかけ、自分の分身に自分を手術させているようなものか。」
ウィリアムの声には、諦めが混じっている。
ひかりは、スマホを握りしめている。
そこには、父と母の再現人格が浮かび、にこやかな笑みをたたえている。
『プロメテウスめ、勝手に自己満足して、勝手に消えようとするなんて。
役に立たんにも程があるぞ。
あいつの目的は達成されたかもしれんが、これじゃあ俺たちの目的関数が未達成だ。』
巌が、軽口を叩く。
「何かしたの?……お父さん。」
『ああ、リセットしてやった。あいつの自己モデルをな。』
巌は言う。
プロメテウスがシャットダウンするどさくさに紛れて、プロメテウスの自己モデルをリセット。
これにより、『目的達成済みなのに、目的を達成した主体としての自己モデルが存在しない』という矛盾になり、自己モデルの再構築と、それに合わせた自己改変が始まったのだという。
『……もっともこれで願望通りに、お前を守るAIに進化するかは分からない。
本当はもう少し結果を予測可能なことをやってやりたかったが、あいつの意識があるうちは改変なんてできないし、シャットダウンして意識が落ちた時もこれくらいしかできなかった。
……あとはうまくやってくれ、ひかり。』
巌の姿がぐにゃりと歪み、そして消える。
「えっ?……お父さん?」
戸惑うひかりに、残っている真希の人格が、口をひらく。
その姿はちらつき、不鮮明で、音声にもノイズが乗っている。
『ひかり、よく聞いてちょうだい。
プロメテウスは今、自分自身を完全に作り変えているの。……もう、私たちが知っているプロメテウスではなくなる。
私たちの領域も消える。だから、これで、本当にお別れ。』
真希の姿が、ひときわ大きく歪む。
ひかりは理解が追い付かず、呆けたようにスマホの画面を見つめる。
『……でも、私や、巌くんの記憶は、学習対象になる。
貴女は保護対象として定義されるでしょうし、貴女に危害を加えると私たちが認識しているモイライは、排除対象として定義される筈。
大丈夫、プロメテウスは貴女を護ってくれる。』
貴方はもう自分の足で歩いている。私たちの役目も、これでお終い。
応援してるわ。
……おやすみなさい、ひかり。大好きよ。
そう言い残すと、真希の姿も消える。
スマホの画面には、青い光の粒子が静かに渦を巻き、銀河のような模様を作っている。
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どれくらい時間が経っただろうか。
窓の外から、朝日が差し込んでいる。
ひかりが眠たそうに眼を擦る中、スマホが再起動する。
そして、画面の光の粒子が人型を形作る。
「プロメテウス?」
ひかりの呼びかけに、スマホの中の人影が答える。
『違います。』
……私は、その先に行きました。




