虚数⑥
「エレニ!死ぬな!
……パパが助けてやる。絶対にだ。」
アレクシオスの手が震える。
焦燥感から出る涙で目が霞む。
しかし、ここで手元を狂わせるわけには絶対にいかない。
手の甲を軽くメスで突き、その痛みで冷静さを思い出そうとする。
手術台には、たった一人の自分の娘の、エレニが横たわっている。
アレクシオスの呼びかけには、瞬き一つ返さない。
ただ、命を持たぬ人形のように横たわっている。
人工呼吸器を取り付け、起動する。
パチンという音と共に、無影灯が表情のない愛娘の顔を照らし出す。
この命が失われるかもしれないという恐怖と、例え一命をとりとめてもおそらく後遺症を抱えるであろう娘の不憫さに失神しそうになる。
……この子を救えるのは、俺しかいない。
自らに喝を入れる。
頭部固定フレームで、小さな頭を固定し、剃刀を手に取る。
開頭手術なので、自慢の綺麗な栗色の髪を落とす必要がある。
……目を覚まして髪がなかったら、この子はどう思うだろうか。
たった今入れた気合が、早くも折れそうになる。
床には、小型の手術ロボットが叩き壊され、内部の部品を撒き散らしている。
今朝、エレニは突如、宇宙の真理のようなことを語り出した。
アレクシオスは面食らいながらも、微笑ましくエレニがたどたどしく語る複雑な理論に耳を傾けた。
正直、少し怖かった。
その内容は、とても4歳児の語る内容ではない。
「……怖がらなくてもいいんだよ、パパ。
エレニね、『繋がった』から、世界の端から端まで、そこにいるんだよ。
昨日も、一昨日も、明日も、全部今日だよ。
……あれ?どうして怖いの?パパ。」
もしかしたらこの子は天才として覚醒したのか、というアレクシオスの考えは、自分の思考を読んでいるかの如きエレニの発言で吹き飛ぶ。
「……エレニ、お前は一体……。」
自分が今誰と向き合っているのか分からなくなってくる。
首からペンダントのように下げたニューロリンクを介し、アシスタントAIのパイオンの声が響く。
『……寝不足のようですね。
ごめんなさい、昨日の夜、エレニちゃんにせがまれて夜更かしに付き合ってしまいました。
寝室に連れていきましょうか。』
そんな訳はない。出鱈目を言うな。
エレニのこれまでの発言は、口調こそ子供らしいが、とても4歳児が語っているとは思えない、まるで東洋の哲学のような深いものだ。
「ダメだよパイオン、パパは賢いんだから。嘘はもっと上手に吐かなきゃ。」
……確定だ。この子は私の思考を読んでいる。
そしてパイオンが私を騙そうと?意味がわからん。
「モイライがね……げ。げ。げ。」
エレニの様子が急変する。
目が大きく見開かれ、口から涎を垂らし始める。
「げ。げ。げ。げ。」
手足が痙攣を始める。
そして硬直したかのようにピンと身体を伸ばすと、そのまま仰向けに倒れる。
ゴツンと、後頭部を床にぶつける音が響く。
「エレニ!」
先ほどまでの恐怖感など一瞬で吹き飛ぶ。
アレクシオスはエレニに駆け寄り、抱き起こす。
……意識がない。
即座に呼吸を確認し、次いで瞼を開いて瞳孔確認をする。
瞳孔不同無し。対光反射……遅い。
数年前にAIが世界を統治するようになり、医療というものは実質AIがやるようになっていた。
アレクシオスのような人間の医者がやることと言えば、出来レースのようにAIが持ってくる症状から診断することだけであり、仮に誤診してもAIが補正する。
……てんかんか?いや、違う。
何故かそれに疑問を抱くことなくここまで生きてきたのだが、叩き上げの医者であるアレクシオスの身体は、勝手に動く。
「来い!パイオン。
エレニが倒れた!スキャンするぞ!」
エレニを抱き抱え、アレクシオスは検査機のある部屋に急ぐ。
戦前の時代からある老朽化した検査機にエレニを寝かせ、機械を立ち上げる。
ブゥンという駆動音を響かせる筐体に、エレニが横たわる寝台が吸い込まれてゆく。
……まだか。
おそらく脳神経系の急性の疾病だ。
一分一秒を争う。
「早くしろポンコツ!パイオン、スキャンはまだか!」
苛立たしげに壁を殴りつける。
『スキャン完了。こちらがCT画像です。』
ニューロリンクを経由してパイオンからアレクシオスの意識に直接画像が送られてくる。
……なんだこれは。こんなはずはない。
そのエレニの脳のCT画像は、特段画像の上での異常は見られない。
『てんかんのようですね。抗てんかん薬の処方を推奨します。
いかがされますか?ドクター。』
強烈な違和感があるが、今は一刻一秒を争う。
ああ、そうしてくれ、パイオン。
アレクシオスは、エレニの小さな体を抱き抱えて処置室のベッドに寝かせる。
パイオンが投薬の準備を進める隣。エレニの手を握りながら、アレクシオスは頭の中に引っ掛かりを覚えていた。
……あれはただのてんかんではない。
『ダメだよパイオン、パパは賢いんだから。嘘はもっと上手に吐かなきゃ。』
エレニの言葉を思い出す。
嘘……なのか?これは。
バッと立ち上がるアレクシオス。
首からかけられたニューロリンクをむしりとると、床に叩きつける。
『ドクター?何を……』
音声で語りかけるパイオンを無視し、隣の部屋の検査機に駆け足で戻る。
……接続されている骨董品のパソコンの画面を覗き込む。
「なんだ……これは?」
そこには、小さく、しかしくっきりと黒いものが映っている。
エレニの脳に寄生するかの如く。人工物ではないのかと疑うほど、直線的な何かが。
訳がわからない。
しかし、その物体は、致命的な位置に鎮座している。
エレニの症状とつながる。
踵を返すように、エレニの横たわる寝台に向かう。
「パイオン!お前、何を隠している!
エレニに触るな!」
エレニの頭部にまとわりつき、注射器を構えていたパイオンを引き剥がし、力一杯床に叩きつける。
派手な音と共に、パイオンの部品が床に飛び散る。
「エレニ!死ぬな!
……パパが助けてやる。絶対にだ。」
アレクシオスの声が、処置室に残響を残す。
****************************************************
「しくじったな、アトロポス。」
「うん。君もね、クロト。
……ああ、僕らは、どうしようもないクソッタレだ。」




