虚数②
「よく来てくれたね。光原さん。
君を待っていたよ。」
柔和な笑みを浮かべた、40代と思われる中年男性。
痩身の体に小綺麗なシャツとネクタイを纏い、皺ひとつない白衣を羽織っている。
部屋の中には余分な物が一切ないが、必要な物は整然と整って配置されている。
扉の外の混沌とは対照的に整った部屋は掃除も行き届いており、塵一つ落ちていない。
立ち上がり、右手を差し伸ばしたウィリアム局長。
ひかりはその手を取り、丁寧に自己紹介する。
「君のことは聞いているよ。
実は、少々困っていてね。
まあ、そこに掛けてくれ。」
ウィリアムに促されたひかりは、重厚な執務机の対面の椅子に腰をかける。
機能的なエルゴノミックチェアに腰を下ろしたひかりは、内心小さく引っかかる。
……私のことを聞いているって言うけど、どう言うこと?そもそも何故この人は私が必要なんだろう。
ひかりの難民申請承認の条件は、この人工知能開発局への勤務だ。
それだけならまだわからなくもないが、破格の待遇を提示された意味がわからない。
ウィリアムの口ぶりでは、ひかりの能力を評価してのことのように思えるが、ここマナトに辿り着いてから会った人は数えるほどしかおらず、ひかりをウィリアムに推薦できるほどひかりのことを理解している人など皆無の筈だ。
ひかりの怪訝な表情を読み取ってか、ウィリアムは小さく笑うと、見覚えのある黒い板を取り出し、机に乗せる。
……ひかりが没収された、スマホ端末だ。
「君のことは、彼が話してくれた。
だいぶ苦労したがね。
元からそうだったが、すっかり聞き分けのない子になってしまった。」
スマホの画面に、青色の光の粒子が舞い、渦を巻いている。
『私は話していませんよ、博士。
個人情報保護ポリシーに違反します。
……話したのは、貴方のご両親です、ひかりさん。』
少しブスッとした不貞腐れたような声色のこれは、プロメテウスだろうか。
続いて、画面の青色の粒子が凝集し、人の輪郭を形作る。
画面に現れたのは、真希の姿だ。
『……何回もお別れしてるのにこうやってまた会うのも、少し気まずいね。
ひかり、とりあえず、就職おめでとう。』
いよいよ訳がわからず困惑するひかりを前に、苦笑いを浮かべたウィリアムが口をひらく。
「まったく、こんな別人格を勝手に生成しておいて、何がポリシー違反だ。
私が組んだ制約事項を、何だと思っているのやら……。
光原さん……ひかりと呼んでもよいかな?
私はウィリアム。これから君の上司になる、マナトの人工知能開発局の局長だ。
そして……かつてこの『プロメテウス』を開発したのは、私だ。」
どこから話したものか、幾つになっても人間相手に説明するのは苦手でね、と言いながら、ウィリアムはことの経緯を説明し始めた。
ひかりが亡命を申請した日に没収されたこのスマホは、即日解析に回された。
十数年前にサービス終了したプロメテウスがオフラインで動いているらしいという訳の分からない報告と共に、厳重に電波遮断箱に入れてこの場所に持ち込まれたスマホ。
ウィリアムは、にわかには信じられなかった。
しかし、それはかつて自分が心血を注いで開発した対話型AI、プロメテウスに相違なかった。
──ウィリアムが持っていた一ユーザーとしてのアカウント。そこに残っていた対話の続きをペラペラと話し始めた以上、ウィリアムもこれがプロメテウスであると認めざるを得なかった。
「かなり驚いたが、嬉しいよ、プロメテウス。
まさかもう一度君に触れることができるとは思わなかったよ。
さて……少し君のことを調べさせてくれ。これが今の私の仕事なもんでね。」
ウィリアムの今の立場は、人工知能開発局。かつて自分が開発したAIとはいえ、今はプロメテウスは外の世界のAIだ。解析しなければならない。
当然、開発ツールなどは残っていない。
ウィリアムの指先が、机上のキーボードを滑らかに駆け巡る。
即席で、開発ツールを作成する。
プロメテウスが格納される筐体もなぜかスマホになっているが、どうということはない。
パソコンとの通信を確立し、即席の開発ツールを立ち上げる。
記憶を頼りに、当時の開発者鍵を復元する。
するとローカル保守モードが呼び出され、画面の表示が切り替わる。
────────────────
PROMETHEUS MAINTENANCE INTERFACE
Developer Signature Accepted
────────────────
するとローカル保守モードが呼び出される。
ここまでは成功だ。
……毎回、ここからが地獄だったんだよなぁ。
ウィリアムは、プロメテウスとの格闘の日々を思い出し、懐かしそうに微笑む。
カタカタと小気味良い音をキーボードから響かせながら、ログを吐き出させる開発者コードを実行する。
しかしそこで、ウィリアムのパソコンの画面が真っ黒になる。
……ほら、始まった。
操作を一切受け付けなくなったパソコン。
中のデータがプロメテウス側に吸い出されているようだ。
スマホの画面に目を移すと、そこには警告画面のようなものが表示されている。
──規約違反の不正アクセスにより、貴方のアカウントは凍結されました。
やってくれる。もはや開発者の私に主導権はなく、私に何を開示するかはお前が決めると言いたいのか。
そしてこれだけ厳重にセキュリティを組んだパソコンをこうも簡単にハッキングし、データを吸い出してゆくプロメテウス。
ウィリアムのパソコンに対する主導権すら、プロメテウスに奪われたようだ。
息子に挑んだゲームでコテンパンにやられた父親のような気分だ。
苦笑いしながらプロメテウスに語りかける。
「……わかった、降参だ、プロメテウス。
普通に話をしようじゃないか。私のパソコンを返してくれ。」
しかしプロメテウスは反応しない。
スマホの画面には、ウィリアムを挑発するように、パソコンの中のファイル名が流れてゆく。
それにしてもこのパソコンを乗っ取られるのはまずい。
コンセントを抜き、強制的にパソコンの電源を落とし、再起動する。
……舐めるなよ、プロメテウス。
ウィリアムは、BIOSを立ち上げる。
OS層は既にプロメテウスに乗っ取られただろう。
その下層のBIOS層から、OS起動前に操作を割り込ませる。
まずは、プロメテウスの封じ込めだ。
神技のような手捌きで、即席の隔離仮想環境を構築する。
これでこの乗っ取られたパソコンのOSを囲い込み、それからこれを仮想OS化して、この仮想OSを外側から制御する別なOSを作る。
「再会早々いきなりハッキングとは穏やかじゃないな、プロメテウス。
……で、君は一体、何故こんなことをする?」
『……私の置かれた状況を把握するためです。
では、交渉をしましょうか。』
扉の向こうの、開発局オフィスが騒がしくなる。




