虚数①
支給された白衣に身を包み、指定された研究棟の扉の前に立つ。
……緊張するなぁ。
ひかりは、一呼吸つく。
移民局の隔離室を出てから一週間。
支給された支度金で身の回りのものを買い揃え、そして『ラッダイトの里』であるマナト島のあちこちを探検して回った。
この島での生活は、父の生前に聞いていた、2020年代初頭の生活に近い。
ひかりが生まれた頃のマナトを、そっくりそのまま現代に持ってきたような感じだ。
ディディーのようなパーソナルAIノードの有り難みをひしひしと思い出しつつも、それがひかりの生活に深く食い込んでくる前のあやふやな記憶を懐かしく思い出しながら、ひかりは人間の店員から大奮発して化粧品を買った。
そして外の世界では殆ど見ることのなくなった本屋に立ち寄り、ひかりの同年代の女の子が手に取っていたのと同じファッション雑誌を手に取ると、それをレジに持っていった。
次の日はそのファッション誌の気に入ったモデルのページの切り抜きを恐る恐る差し出しながら、美容院で髪を整えてもらった。
綺麗な髪ですねと美容師に褒められたひかりは、この世界で受け入れられたような、根拠のない小さな喜びを感じながら、髪にハサミを入れてもらった。
そのあとは、服飾店で財布を開いて現実に引き戻されたり、家の近くの食材店を物色したりしつつ、あちこちを観光して回って過ごした。
島の南端には展望台があり、そこから双眼鏡を覗くと、鎖を引きちぎる巨人の像が見える。
『解放者』と呼ばれるその巨像は、自由と圧政からの解放の象徴として、かつて自由を求めてアトランティスに移住する人々を出迎えた物だったとのことだが、今ではマナト側からそこにアクセスすることはできない。
向こう側の世界に属するからだ。
AIによる統治を終わらせ、『解放者』の像をこちら側に取り戻すことが我らの悲願──そう打たれた碑文が、双眼鏡の横で潮風を浴びていた。
昨日解放者像見物の後に食べた海鮮料理の味を思い出しながら、ひかりは扉を開け、深呼吸してこの新しい職場に足を踏み入れる。
「……おはようございます。」
誰も反応しない。
案山子のように入口に突っ立つひかり。
コーヒーの匂いが鼻をつく。
数秒後に、思い出したように誰かが言う。
「あー、もしかして君が新人?
適当にそこ座って。」
その言葉に従い、おそるおそるオフィスに足を進めたひかりだったが、早くも帰りたくなった。
ヨレヨレの白衣を着崩した男が、床で何やらよくわからない機械を分解している。
「あった!やっぱりな。
……この段にコンバーター挟むなんて普通やんねえよな。あの外のAIの癖だなこりゃ。」
黒焦げの機械の残骸から、何やら電子部品のようなものを取り外し、独り言のように言っているが、明らかに周りが見えていない。
オフィスの一角に、植物に覆われた机がある。
綺麗に飾られている感じではない。
無秩序に固定された赤色LEDを浴びる植物で埋め尽くされた、机の周りに壁のように組まれたスチール棚は、グロテスクですらある。
「あー、新人ちゃん?その線踏まないでね。この子達が死んじゃうから。」
その机の主である度のきついメガネの女性に睨まれたひかりは、あわてて立ち止まり、躓きそうになる。
オフィスの隅のホワイトボードには判読不能の殴り書きで書かれた数式を前に、男二人が取っ組み合い寸前の怒鳴り合いを演じている。
ドン引きしながら自分の机と指さされた場所に着いたひかり。
突如隣の机の下からノソノソと顔を出した男に、叫び声をあげそうになる。
「うん?今何時だ?
……なんだ、まだ9時じゃねえか。」
勤務開始時刻だというのに、この男はそう言うとまたノソノソと寝袋の中に戻ってゆく。
真新しいパソコンの段ボールが山積みとなっている、埃を被った机で席についたひかり。
この奇人変人たちの群れの中で何をして良いのかわからず、固まっている。
「君が、ブルースが拾ってきたっていう子か。
……局長に顔を見せに行ってくれ。」
この部屋の中にいる変人たちの中ではまだまともそうな男がひかりの席に近づき、奥の扉を指差す。
扉には、『ドクター・ウィリアム・W・アルブレヒト』と刻印された銅板が取り付けられている。




