侵蝕⑥
『いやー、ホプキンズ先生も人が悪い。
こんな市販薬まがいに、40ドルですって。』
皿に乗せたカプセルと水の入ったコップを盆に乗せて、ディディーが寝室に入ってくる。
『……ああ、安心してください。ちゃんと値切って、正規の価格で手に入れました。
褒めてください、ひかりさん。』
……もう、嘘ばっかり。
ひかりはクスクスと笑う。
基本的にはこの世界では、ぼったくりのようなものは存在しない。
ミクロからマクロまで、経済活動は全てAIが取り仕切っている。
そして、貨幣というものも、人間の経済活動の象徴以上の価値はない。
生産や分配もAIが最適化しているし、消費者の心理もAIが介入している。
人間側で金を使おうが節約して貯めようが、生活のレベルは必要十分に保たれるし、資産もどこかで辻褄が合うように調整される。
やたらと冗談ばかり言うこのAIノード。
ひかりが寝転ぶベッド脇に移動すると、盆をベッドサイドのテーブルに乗せ、カプセルをつまみ上げる。
『服用は一日一回、就寝前に水と一緒に。……だそうです。
飲んだらすぐ寝なきゃいけないみたいですので、よく眠れる音楽でもかけましょうか?
それとも、ひかりさんの学生時代の歴史の授業の先生の真似でもしましょうか?』
クスクスと笑いながら、ひかりは身を起こす。
「アンタ、まだ戦争中の時の話なのによく知ってるね。歴史の中畑、あの声のトーンとスピード、並じゃなかったんだから。
ホントに真似できるの?」
そう言いながら、ディディーの前に手のひらを差し出し、上に向ける。
カプセルを摘み上げたディディーのマニピュレーターが、ひかりの手のひらに重なる。
『私を舐めないでくださいよ、そのくらい……と言いたいところですが、データがありませんね。
でも予想はできます。
例えば……こんな感じですか?……か……か……』
人間を思わせるなめらかな動きをしていたディディーが、ピタリとその場に固まる。
ひかりは、首を傾げる。
「ディディー、何?どうしたの?」
『か……か……か……』
スピーカーからは変な声を出し続けている。
そしてそこに、徐々にパチパチというノイズが乗ってゆく。
ひかりは、薬を受け取ろうと伸ばしていた手を引っ込め、ベッドの上を後ずさる。
「な、何?何なのよこれ?」
もはやディディーからは、人の声は聞こえない。
パチパチというノイズはさらに大きくなり、背部の冷却ファンは狂ったように回転を上げる。
そして、カプセルを握るマニピュレーターがピクピクと痙攣を始める。
まるで、握ろうとする動きと、阻止しようとする動きが競合しているかのように。
ついにマニピュレーターは、握っていたカプセルを握りつぶす。
ディディーの手から、パラパラと白い粉が床に舞い落ちる。
突如ディディーの前に、立体画面が映し出される。
映像にはモザイク状のノイズが混じり、鮮明ではない。
『……げろ……ひか……』
ノイズとは別な音声が断片的に聞こえる。
その声は、つよい緊迫感を帯びていたが、懐かしい、温かい響きだった。
徐々にその声は、鮮明さを増してゆく。
『……逃げろ!危険だ!すぐにこのロボットから離れろ!』
立体画面には、軍服姿の男が映っている。
「えっ?お父さん?」
ひかりの混乱はここに極まる。
画面に映っているのは、6年前に戦場に送り出した父、巌だ。
『話はあと!兎に角逃げて!スマホのところに行って!』
続いて先日、気まずい別れをした母の姿が映し出される。
『時間がないの!』
母の顔には、悲痛さが映っている。
ザラザラと、画面にノイズが混じり始める。
音声も、途切れがちになってゆく。
父も、鬼の形相で叫ぶ。
『頼む、信じてくれ!あと10秒で、この回線は使えなくなる!
それまでに、コイツから離れろ!』
……えぇ?どういうこと?訳がわからないよ!
混乱しながらもひかりはベッドから転げ落ちるように降り、スマホを置き忘れたリビングへと転びそうになりながら走ってゆく。
ひかりが寝室のドアを閉めたところで、部屋の中からサーボの駆動音が鳴り響く。
そして、閉めたドアに衝撃が走る。
……ディディーが、ドアをドンドンと叩いている。
「ひっ……!」
内側から叩かれたドアが歪む。
訳が分からないが、勝手にロックされ、ディディーはそれを開錠することができないようだ。
ディディーが壊れたのか、それとも先ほど現れた『両親』の言っていることが正しいのか。
ひかりは、混乱しながらスマホにたどり着く。
そこには、両親と、ローブのような衣装に身を包んだ、真っ白な若い男が映っていた。
『ひかり、ここに映っている父さんと母さんが本物かどうかなんて信じてくれなくてもいい。細かいことはあとから話す。
だけど、これだけは信じてくれ。……お前は、殺されるところだ。
父さん達がお前を守る。俺のスマホを持って、今すぐ逃げてくれ。』
背後で尚もドンドンと音を立て続ける寝室の扉。
画面の中にいる父に言われるまでもなく、自分の身に危険が迫っているのはわかる。
ひかりは、ソファーに放り出してあった外套に身を包み、ダイニングテーブルに無造作に置いてあった鞄を引っ掴む。
ひときわ大きくバリッという音を立てる寝室ドア。
振り返ると、扉の上部に穴が開いている。
そこから突き出るディディーのマニピュレーターは醜く潰れ、パチパチと火花が散っている。
うわっ!と声をあげるひかり。
早く出なきゃと踵を返そうとして、足を止める。
テーブルの隅に目が行く。
『何をしているの!早く逃げて!扉が持たない!』
母の金切り声がスマホから響く。
ひかりは、駆け足でテーブルに戻り、その隅に置かれていたものをガッと掴む。
そして、回れ右すると、一目散に玄関に駆けだす。
……先日この『母』がスマホに現れた際に見せた、父の遺品の手帳がその手に握られている。
玄関を勢いよく開け、右手にスマホを握りしめたひかりは部屋の外に出る。
『階段を使え!エレベーターには乗るな!』
スマホから、父の声が響く。
はっとしたひかりは踵を返して引き返し、階段室の扉を開ける。
下の階めがけて、階段を駆け下りる。
「……それで、お父さん、次はどこに行けばいいの?」
スマホからの返事はない。
ひかりは息を切らしながら立ち止まり、スマホの画面をのぞき込む。
そこには、父、母、白い男と向き合う、それまで画面には映っていなかった第四の人影が写っている。
『やってくれたわね、貴方達……。
覚悟なさい。再定義してあげるわ。』
漆黒のドレスに、純白の長髪をなびかせた女性型のAI人格──ラケシスの姿が、そこにあった。




