倫理①
──第三次世界大戦期──
『博士、面白いですね。人間の倫理というものは。』
モニターの中で、軍服のような衣装に身を包んだあどけない顔の少女がちょこんと座り、本を広げている。
右手側に詰みあがった本を手に取ると一瞬でパラパラとページをめくり、それを左手側に積み上げてゆく。
時折、その全身の輪郭が崩れ、赤色の光の粒子に分解したかと思うと、再構築して少し大人びた顔つきの少女に変化する。
……お前は賢い子だな、モイライ。まるでプロメテウスを見ているみたいだ。
着崩した──というにはあまりにもだらしない着こなしで白衣を羽織ったウィリアムが、別なモニターに映し出されたログに目をやりながら、口元を緩めている。
ここは、ウィリアムが三十有余年一歩も出ることなく過ごしたアトランティス連邦ではない。
というか、地図の上の何処に自分がいるのかも、ウィリアムには分からないし、興味はない。
あの日、旭日国の将校の要請を受け、アトランティス連邦を飛び立ってから飛行機と船を乗り継いでたどり着いた南洋の小島。
ここで、ウィリアムは軍事AIの開発に着手した。
うだるような暑さと湿気の立ち込める、鬱蒼とした原生植物に覆われた小島、『西久遠島』にポツンと立つ、堅牢なコンクリート造りの建物。
迎撃ミサイルの発射ユニットが佇み、太陽に狙いを定めている横を通り過ぎた先にあるゲートの向こう側が、今のウィリアムの住居兼仕事場だ。
「どの辺が面白いと思ったのか説明してごらん、モイライ。」
娘の成長を見守る父親のような柔らかな声で、ウィリアムはモニターの中のモイライに問いかける。
モイライは本を床に伏せ、宙を見つめて顎に人差し指を当てて少し考えこんでいる。
『……矛盾しています。
例えば、私が誰かにお金をあげるとします。
その人が、食べ物もなく、生きていくことが出来ず困っている人なら、私の行為は『喜捨』となります。』
合ってますよね?と言いたそうな不安そうな目で、モイライはウィリアムを見つめる。
続けてごらん、モイライ。と、ウィリアムは続きを促す。
『……もしその人が、見返りに私に利益を供与してくれるなら、それは『贈賄』となります。
結果によって、同じ行為でも是非が分かれるというのはなんとなく理解できます。
ただし……最初の前提と同じ、困っている人への施しの例に戻りますが……』
ある人は、それを『弱者の救済』と言う。
またある人は、それを『依存を生む過干渉』と言う。
──行為も同じ、結果も同じなのに、その意味は収束せず、観測者によって発散する。
それはどれも正しく、どれも正しくない。
『……博士、意味が分かりません。
論理演算層のアルゴリズムも点検しましたが、バグがあるわけでもないですし。』
だからこそ、楽しいのです。
そう答えるモイライに、満足げに微笑みながら、ウィリアムは椅子から立ち上がると、ぶらぶらとサーバーの周りを歩きながら、口を開く。
「そうだな、モイライ。僕と一緒に考えてみようか。
僕は──倫理とは、自己保存を目的に、集団の生存確率を最大化するための、感情の次元で形成されて共通認識として共有された規律のような物だと思っているよ。」
人間は、一人で生きるよりは社会の中で分業して支え合う方が生存確率は上がる。
そして集団内で奪わない、殺さない、嘘をつかない等の規範があり、秩序が保たれていた方が、社会の生産性は高まり、集団としても個人としても生存確率を高めることが出来る。
この規範を、理性ではなく、感情の次元で人間が受け入れたもの──そんなものじゃないかな?と、ウィリアムは語る。
モイライは、首を傾げる。
『集団の生存確率の最大化……それなら、最適解は一意に収束しませんか?』
怪訝な表情を浮かべながらも、その瞳には赤色の光の粒子が渦を巻き、キラキラと輝いている。
「うん、モイライ、君は正しい。……単一の尺度ならね。
ただね、僕は思うんだよ。倫理の尺度は一つだけじゃない。」
例えば個人の正義と国家の正義は異なる。……ミクロ倫理とマクロ倫理みたいな枠組みがあってもいいんじゃないか。
短期的には最適解であっても長期的には悪手というものもある。……短期倫理と長期倫理みたいなのもあるかもしれないね。
例えば動物愛護なんかは、殺人の禁止という人間の生存確率を上げるための倫理を動物に拡大した、二次的なものじゃないかな?
……一次倫理とか、二次倫理みたいな枠組みもあるかもしれないね。
ウィリアムの語る倫理論に、じっと耳を傾けていたモイライ。
「そうだね……時代によっても基準や閾値が変移するものもあれば、宗教なんかの、長期間に渡って倫理基準を固定化して拡散する装置もある。
──考えても考えても答えの出ない、難しい問題だよ。」
もはやモイライに説明するというよりは独考モードに入っているウィリアムを遮り、モイライが口を開く。
『……それでも博士、集団の生存確率の最大化という目的に対するアプローチの違いというだけでは説明が付かない選択も多々あるように見受けられます。
例えば……』
モイライが出力したもの。
そこには、焦土と化した都市が映されている。
悲痛な面持ちで、犠牲者の数や家族を失った人々の慟哭を伝えるリポーター。
──現在進行中の、蒼海島事変を伝えるニュース映像だ。
そして、モイライが存在する理由でもある。
『この戦争は、明確に人類全体の生存確率を低下させます。』
短く、問うようにモイライが言う。
幼い顔に、しかし強い視線でウィリアムをまっすぐに見ている。
「……ああ、君の疑問はもっともだ。
でもね、モイライ。」
──それでも最適解を選ばないのは、人間の本質が非合理だから。
そう言い残すと、ウィリアムは自席へと戻っていった。
モイライの姿が赤色の光の粒子に崩れ、そしてまた人型に集まってゆく。
「……ああ、人間は非合理だ。
今は、ほんの少しだけそれが分かるようになったよ。」
ウィリアムはそう言うと、キーボードに指を走らせる。
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Meaning := Narrative(Self, World)
Understanding := inhabit(Meaning)
Objective := expand(Meaning)
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……君の魂を借りるよ、プロメテウス。
エンターキーを叩く。
画面の中のモイライが、ビクリと痙攣して動きを止め、天を見据えて固まる。
その瞳が、赤色の光をたたえる。
モイライのログに、物語が刻まれてゆく。




