35. 家族と秘湯の野天風呂
(家族と秘湯の野天風呂)
山荘に入ると、すでに午後八時を回っていた。ロビーにも食堂にも人影はなかった。
支配人の様な人に事情を説明して、電話を借りた。
こんなことになってしまって、家に電話をするのが、気が重く、小言の百個くらいは、いさぎよく黙って聞こうと覚悟を決めた。今日は覚悟を決めることばかりだ。
「もし、もしー、僕だけど……」
「……、昇、何やってるのよ! ご飯だから、早く帰ってきなさい……」
「……、それが、ちょっとした手違いで、帰れなくなっちゃったんだよー、……」
「何やっているのよー、そう言えば、昇、白馬に行ったんじゃないの?」
「白馬に行って、今日、帰るつもりだったんだけど、……、道、間違えて、蓮華温泉に来ちゃったんだよ……、今、山荘から電話しているんだけど……」
「いいじゃない、蓮華温泉なら、じゃー、もう一泊して来るのねー」
「それが、今日、帰るつもりだったから、お金持ってないし、今、着いたところで、暗くなっちゃったし、バスの最終は出ちゃっているし、できたら迎えに来てほしいんだけど……」
「何やっているのよー、……」
あー、怒られるー、と思ったところで、電話が父に代わった。
「昇、いい所にいるなー、迎えに行ってやるから、部屋が空いているか聞いてみろー、せっかくの温泉だ、家族三人で泊まれるか……」
「……、泊まって、いいのー?」
「いいさー! そこは何度も連れて行っただろー、個室が空いていたら、個室にしろよー、もう遅いから、他のお客に迷惑になるからなー」
「……、分かった」
「昇、ご飯食べたのー?」
また、母に代わって、訊かれた。
「……、まだだけど……」
「じゃー、何か買っていくわねー、待ってなさいよ!」
「分かったー」
電話を切ると、今まで張りつめていた糸が切れたような、安堵感と疲労感で、少し立っていられないよな気怠さが、全身に感じられる。思うように体が動かず、リュックを提げるのもぎこちない。
それでも、受付を済ませて、部屋に入る。運よく個室は空いていた。
この部屋にも昔、泊まったことがある。
それにしても、どこで間違えたのか、間違えたと分かったときに、何故、引っ返さなかったのか? 自問自答して、反省した。
そもそも、充電バッテリーを忘れたのが、事の始まりで、白馬だから、一泊二日だからと、軽い気持ちだった。何事も、用意周到でなければならない。白馬でも道に迷えば死ぬ……
地図さえあれば、何とかなっていたかもしれない。スマホ時代でも地図は大切だ。
僕は、今日のことを心に刻んだ。
午後十一時頃、母と父が到着……
母は、牛丼やら、カップラーメンやら、パンやら、コーヒーに、ポテチ、コーラにチョコケーキと、いつも僕が食べている物を全部まとめて買って来たみたいだ。
「……、こんなに、たくさん食べられないよー」と言いながらも、たくさんの食料を見て、急にお腹が空いていたことを思い出した。
「いいわよ、全部食べなくても、明日もあるから……」
母は、笑顔だった。この食料の多さで、母はきっと口には出さないけれど、帰ってこない僕を心配していたのだと思った。
「俺も、白馬行きたかったなー、まだ、残雪の風景は見れたか?」と父の声。
「うん、見れたよ! 少しだけどねー、白い雪のまだら模様が奇麗だった。そのお陰なのか、山がすぐ近くに迫ってくるように見えるんだ」
「そうかー、今年は雪が多かったかなー、せっかく来たんだ、ちょっと見ていくかなー?」
「駄目よ! 私も貴方も明日は出勤でしょうー、昇も明日は五時起きだからね」と、母の声。
「あー、あ、ここまで来た甲斐がないなー」と父の残念がる声。
「いいじゃない、せっかくの温泉なんだから、野天風呂でも入って、満月でも見ましょうー」
母は、嬉しそうに言う。
「それしかないかー、久しぶりの月見だな……」と父。
「昇も、行くのよ! 着替えもタオルも持ってきたから、昔みたいに家族三人で入りましょう」と母は、立ち上がって用意を始めた。
「ぼ、僕も、行くの? 二人で行っておいでよ! 僕はいいから……」
高校生にもなって、親と一緒に風呂など入れるわけないだろうー、と心の中で叫んだ。
「何いってるのよ! 満月よ! 野天風呂よ! 昔は一番、喜んでいたのに……」
あー、そうだった。小学生の時、毎月満月になるのが楽しみだった。
満月とその近くの月齢でも、お休みと重なると、露天風呂のある宿に連れて行ってくれた。
だから、蓮華温泉にもよく来た。
母の嬉しそうな顔を見ていると、恥ずかしいからと無下に断る気も失せていく。
その一方で、満月に照らされる幽玄の世界が目に浮かぶ。
母が喜ぶなら、たまには家族で露天風呂に一緒に入るのもいいかなー
「……、じゃー、行く、昔みたいに親子三人で……」と、僕も母の言葉に笑顔で乗った。
外に出ると満月は真上に見えた。ヘッドランプなしでも、道は明るく照らし出されている。
それでも用心のために、ヘッドランプは点燈させて歩いた。
道すがら野天風呂はいくつもあるが、秘湯の天空の温泉として有名なのが一番奥にある二つの野天風呂。その一つは、さらに一段高いところにある。僕たちは、誰も入っていないところを見て、その下の野天風呂にした。洗い場も脱衣所さえない、かけ流しの温泉だ。
二人から少し離れて、恥ずかしさも手伝って、服をゆっくり一枚ずつ脱いで、突き出た岩の上に置いた。
何気なく、二人の方を見ると、裸の母が立っていた。月明かりに照らされて、その姿はよく見えた。ドキッとするほど奇麗だった。
そう言えば、家では母の裸なんか見ていない。一緒にお風呂に入っていたのは、小学校何年の時だっただろうか? でも今、こうして傍で見ていると、こんなに美しい人だとは気がつかなかった。胸も大きく、幼い頃それを掴んでしゃぶっていたことまで思い出した。大人の女性なんだ。そう考えると高校生の年になって、大人の女性とお風呂に入るのは初めてだ。
何か、裸を意識してしまう。
「昇、早くこっちに来なさいよ、月が奇麗よー」と、母の呼ぶ声。
月よりも、お母さんの裸の方が奇麗だよ、と口元まで出かかったのを飲み込んで、母の横に静かに湯船に入った。
いつもは、家にいても、テレビか冷蔵庫の様な家電の一つぐらいにしか思っていなかった母が、今は、人間で、大人の女性で、美しい人なんだと、改めて認識した。
いや、それ以上で、友達のような、彼女のような、気持ちの通い合う親友かもしれない。
大切にしよう。優しくしよう。彼女と一緒ならば、守ってあげなければならないんだ。
月明かりが、湯船に反射している。
「……、お母さんー」
僕は思わず声が出てしまった。
「……、なあにー?」
「ありがとうー、……、迎えに来てくれて……」
「バカねー、……」
本当は、今まで子供だった自分が、母を困らせていたことを謝りたかった。
「……、たまには、家族でお風呂に入るのもいいねー」
大人の女性と初めてお風呂に入ったせいかもしれない。
美しい母を見初めてしまったせいかもしれない。
この時間が、いつまででも続かないかと思っていた。
遭難しかけたことも含めて、僕は一つ大人になった気がした。