第6話「守れない街」
祈り堂の長椅子が壁際へ寄せられ、床に布が敷かれていた。負傷者を置く場所は、そこにもほとんど残っていなかった。
アキスたちは入口近くの隙間へ兵を下ろした。治癒術師の女性がしゃがみ、血で固まった服を傷口の周りから切り取る。デンバルは足首を、アキスは膝を支えた。
「その脚、まっすぐに支えていて。離していい時は、私から言うから」
傷の上に淡い光が集まる。兵の手がアキスの袖をつかんだ。
「西門の見張り台に、仲間がいる。帰ってきた者がいたら……」
「西門の見張り台ですね。戻った人に聞きます」
自分が迎えに行くとは言えなかった。あの店の敵がもう一体増えていたら、この人さえ運べなかったかもしれない。兵の指から力が抜けても、アキスは脚を支え続けた。
扉の外で声が上がった。祈り堂に面した大通りまで敵が迫り、担ぎ込まれる負傷者のすぐ後ろを、武器を構えた兵がふさいでいる。
「入口を空けろ! まだ中へ入れてない者がいる!」
バゼルトが正面へ出た。その隣で、同じ服、同じ剣を持つもう一人の教官が身体を起こす。二人は通りの左右へ分かれ、負傷者を運ぶ兵たちと入れ替わった。
屋根から降りてきた岩翼人へ、射手たちが矢を集中させる。敵は羽ばたいて軌道を変え、負傷者の列を守る兵の肩へ両足を伸ばした。兵が上げた盾の外から、爪が肩へ回り込む。教官は兵の横へ走り、敵がつかんで飛び立つ前に、翼の付け根を剣で切り裂いた。敵は片翼を動かせないまま地面へ落ちた。
もう一方には、長い柄の武器を両手で握った巨角人が迫っていた。先頭の戦槌が味方の盾をへこませ、兵を後ろへ押し倒す。その横から大斧が振られ、助けようとした仲間まで退かされた。教官が近づくと、敵は武器の届く手前に防御魔法を張った。
「断空斬!」
剣が横へ振り抜かれた。大きな斬撃が光の膜を破り、戦槌を握る腕と、その背後の敵まで切り裂く。落ちた武器を越えて正規兵が踏み込み、大斧を構え直す敵へ横から迫った。
倒れた敵を越えて次の列が進んでくる。だが、正規兵も引かなかった。屋根の射手が低空の敵を追い払い、地上では術者が建物の戸口を防いだ。教官が通りを進むたび、負傷者を運ぶ場所が少しずつ広がっていく。
「西の角まで押し返したぞ!」
入口の兵が叫んだ。アキスの身体も前へ浮いた。
「離さないで! まだつながってない!」
治癒術師に止められ、膝をつき直す。支えている兵がこちらを見ていた。アキスは目をそらさず、持ち直した手に力を込めた。
しばらくして、女性が兵の脚に布を巻き始めた。
「もう手を離して大丈夫。二人でそこの壁際へ運んでくれる? まだ立たせないでね」
デンバルと兵を運び終えた時、西から赤い光が走った。
祈り堂の扉からは、大通りを遠くまで見通せた。さっき正規兵が取り戻した交差点へ、横の通りから炎が噴きつけられた。防御魔法に当たった炎は消えず、光の膜を赤く染めて広がった。術者が腕を下ろすより早く膜が破れ、前に立つ兵の金属盾を焼き抜いた。
盾を捨てた兵が倒れる。その後ろでも服に火がつき、仲間が地面へ押さえて消していた。
「交差点から退け! 建物の陰へ!」
バゼルトの声に合わせて兵が下がる。だが、逃げようとした路地の入口からも火柱が上がった。西側の通りにいくつもの炎が立ち、交代するはずだった部隊を分断する。頭上を越えた岩翼人が、炎を避ける兵へ急降下した。
身を低くした兵の背へ両足がかかり、爪が肩の金具をつかんだ。兵が剣を振り上げた時には、もう足が地面を離れていた。そばの仲間が手を伸ばしたが届かず、敵は兵をつり下げたまま屋根を越えていく。
「上!! 兵がつかまってる、早く、誰か――!!」
アキスが入口へ駆け寄る前に、岩翼人は両足でつかんでいた兵を放した。兵の身体が屋根より高いところから落ち、通りへたたきつけられる。剣だけが石畳を滑り、兵は動かなかった。助けに走り出した別の兵へ、もう一人の岩翼人が急降下してきた。
「通りへ出るな! 頭上を守って、建物の陰へ戻れ!」
バゼルトの剣が、伸びてきた足を下から払った。兵たちは防御魔法を斜めに重ね、負傷者をその下へ引き入れる。だが、通りに落とされた兵のところまでは届かなかった。
教官たちは火柱の左右から追手へ斬りかかった。一方が両手武器の振り下ろしを外へそらし、もう一方が敵の胸を貫く。その間に正規兵が負傷者を抱え、祈り堂の入口へ戻った。
バゼルトが次の敵へ向き直った時、火柱から噴き出した炎が右腕を包んだ。袖が焼け落ち、その下の皮膚がただれた。剣を左手へ持ち替える。離れたもう一人も同じ腕を下げたが、攻める足は止めなかった。二つの剣が敵を押し返し、負傷者を運ぶ兵の背後を空けた。
剣を握り直した教官が、焼けた腕を一度だけ見た。西の交差点へ戻るその背を、アキスは目で追った。
運び込まれる人数が増えた。入口に積んであった布がなくなり、ルーシャとデンバルが奥から運んでくる。アキスも渡された布を抱え、空いた場所を探した。
新しい担架が入口を通った。その横をスミナが歩いている。誰かを呼びに行くのだろうと思ったが、彼女は担架が床へ下ろされると、すぐにしゃがんだ。
「父さん……? 父さん!」
アキスは止まった。
舞台で大きな伸びをして、メイハを笑わせた人だった。服に石の粉がつき、頭の横を血が濡らしている。スミナが手を取っても、顔はこちらへ向かなかった。
「建物に挟まれていた。引き出した時には、息があったんだが……」
運んできた兵が言葉を切った。治癒術師が父の胸と首に触れ、スミナに向かって首を振る。
「待って。まだ、何もしてないじゃないですか」
スミナは父の手を持ち上げ、治癒術師へ差し出した。
「治す光、出してくれませんか。さっきの人みたいに。……お願い、まだ温かいんです。ここ、触ってみて……!」
女性はその手を受け取り、もう一度首へ指を当てた。スミナは父の顔を見つめて待つ。女性が何も言わずに手を離すと、返された手を自分の両手で包んだ。
アキスは抱えていた布を一枚、隣へ置いた。スミナは布へ目を落とし、父の顔を見た。
「顔には……かけないで。お願い」
アキスは布を広げ、肩で折り返した。話しかけようとしても、何を言えばいいのか出てこなかった。スミナは布の端を直し、もう一度父の手を取った。
彼女の母が駆けつけたのは、その直後だった。娘のそばへ座り、夫の名前を呼ぶ。返事を待つ間も、外では戦いの音が続いていた。
祈り堂へ戻ってきた守備隊の兵が、教官へ報告した。西側の部隊は退却を始めた。守備隊長は街を放棄し、東門から住民を出すと決めたという。
「歩ける者を先に出す。東の部隊へ、列の先頭を守るよう伝えてくれ」
教官は兵を送り出し、生徒たちにも避難の手伝いを命じた。西へ戻る部隊はもう集められなかった。
アキスは入口の外へ出た。人々の間にメイハの顔を見つけ、名前を呼ぶ。妹は付き添っていた兵の手を離し、胸元へしがみついてきた。
「お兄ちゃんっ!! 家に兵の人が来て、逃げろって……どこにもいないし、私、どこに行けばいいか……!」
「ごめん、メイハ、ごめん! ここで待ってれば会えるって……けがは? 転んだりしてないか?」
メイハは首を振ったが、アキスの服を放さなかった。
「お兄ちゃんの手、血がついてる」
剣を持つ手を背に回しかけ、アキスはやめた。
「俺の血じゃない。運んできた人の……」
それだけではないことを、妹に説明できなかった。メイハの手を包み、東の方へ身体を向ける。
「……メイハ。兵の人と東門へ行っててくれ。俺は、中の人を運んだら――」
「やだ!! やっと会えたのに!」
メイハの指が、服をきつくつかんだ。
「邪魔しない。ここで待ってるから」
「ここは駄目だ。もう敵が来てるんだよ」
「お兄ちゃんは!? お兄ちゃんもここにいるじゃない!」
アキスは口を開き、そのまま閉じた。メイハの手を放したくないのは自分も同じだった。それでも、入口の内側には自分で立てない人が並んでいる。
「……そうだな。俺だけ残るの、ずるいよな。でも、まだ歩けない人がいるんだ。運び終わったら行く。門の外で、俺を呼んでてくれ。聞こえたら、すぐ探すから」
付き添っていた兵が、妹の肩へ手を添えた。メイハはアキスを見たまま、握っていた指を一本ずつ離した。歩き出しても、何度も振り返った。デンバルも避難者の中に家族を見つけ、列の場所を教えに走っていく。
祈り堂では、スミナの母が娘の肩に手をかけ、東へ向かおうと促していた。
「このままじゃ、出られなくなるのよ」
スミナは父の手を握ったまま、顔だけを上げた。
「母さんは先に行って。私、あとで……」
「あとでって、どうやって来るの!」
スミナは答えず、父の指を自分の指に重ねた。何度直しても、手を返すと離れてしまう。
「……放したら、父さん、ここに一人になっちゃう」
「だからって、スミナまで置いていけるわけないでしょう……!」
強く言った母が、スミナの肩から手を滑らせた。娘の隣へ座り直す。ルーシャも近くへしゃがみ、スミナの足元から血のついた布を取りのけた。
アキスが空の担架を取りに戻った時、東側の大通りから悲鳴が上がった。進み始めた避難の列が止まり、前にいた人たちが祈り堂へ押し戻されてくる。




