第43話「返せなかった鍵」
翌朝、敵は南の畑からも退いていた。
イラドナは、追う兵を遠くまで出さなかった。木の間に敵の射手が残り、集落には眠っていない者が多い。運び込む荷の道を守り、倒れた者を連れ戻す方へ人を回した。
ギムトは、北の階段から運ばれてきた。
アキスは荷車のそばで、その顔を見た。矢は抜かれ、首へ布が巻かれていた。カフリが布を顔まで引き上げると、昨日の傷も見えなくなった。
イラドナが、ギムトの荷から鍵の束を取った。
避難した家の鍵だった。持ち主の所へ返すと、彼は言っていた。
「俺が持っていきます」
アキスが手を出すと、イラドナは首を振った。
「どの家の鍵か、分かるか」
分からなかった。
答えられずにいると、イラドナは束から一つを取り、そばで待っていた男へ渡した。
「そちらの家族は、東へ出ていたな」
「娘の所だ。俺が知らせてくる」
男は鍵を布へ包んだ。アキスの空いた手は、そのまま下へ戻った。
何かをしたかった。けれど、鍵を持てば役に立てるわけではなかった。
荷車を動かす時、カフリに呼ばれた。アキスは右手で荷台の端を支え、車輪が段差を越えるのを手伝った。
*
ノルセイが水を飲めたのは、昼を過ぎてからだった。
カフリが椀を口へ寄せると、彼は少しだけ顔を動かした。
「……多い」
「まだ飲んでないぞ」
「傾けすぎだ。服に入る」
カフリは椀を戻した。ノルセイの胸元へ落ちた水を布で押さえる。
「注文ばっかりだな」
「そっちが、下手なんだよ」
声は弱かったが、カフリはようやく息を吐いた。今度は椀の端を少しだけ傾ける。
ノルセイが飲み終えると、メルヒナが傷を確かめた。熱はまだ高く、自分で身体を起こすこともできない。椀を片づけたカフリへ、メルヒナは次に起こす時刻を伝えた。
アキスは入り口で立ち止まった。
「ギムトを、運んできたよ」
ノルセイが目を向けた。
「……どこに?」
「下の荷車に。顔は、布で」
それ以上を言えず、アキスは唇を閉じた。
ノルセイは寝台へ頭を戻した。
「下から来る奴を見てた。上を見ろって、あいつが言って……」
息が続かなかった。
カフリが、続きを待たずに布を直した。
「今は、寝てろ。話は後で聞くから」
ノルセイは答えなかった。開いていた指が、布の端を握った。
アキスは部屋を出た。廊下の壁へ右手を当て、しばらくそこにいた。
*
夕方、スミナが食事を持ってきた。
アキスは家の下の根へ座り、椀を膝へ置いた。片手では底が滑る。スミナが隣へ座って椀を持ったので、彼は小さく礼を言い、匙を取った。
温かいはずなのに、味がよく分からなかった。
「肩、メルヒナさんに見てもらった?」
「さっき。しばらく上げるなって」
「剣の練習も?」
「それは、まだ聞いてない」
スミナが彼を見た。
「聞かなくても、駄目だと思う」
「……右は動くからさ」
「その右で、さっき荷車を押してたでしょ」
アキスは匙を止めた。
スミナは責め続けなかった。彼の膝から椀を少し持ち上げ、こぼれそうな汁を戻した。
「私、上から見えてたんだ。アキスが木の前で戦ってる所」
彼は橋を支える幹へ背をぶつけかけたことを思い出した。
「でも、あそこを離れたら、橋にいる人が撃たれるから。見に行けなくて」
「来なくてよかったよ。階段に兵が来たから、俺たちも――」
「分かってる」
スミナの声が少し強くなった。
「その話じゃなくて。……終わったら、どこにいるか分かるようにしてほしいの」
アキスは口を閉じた。
「私は、メルヒナさんの所にいた。アキスは、ずっと東にいたでしょう。カフリが教えてくれるまで、どっちが怪我したのかも分からなくて」
彼も、スミナが北へ行ったとは知らなかった。
戦いが終わってからも、彼女のいる枝を何度も見上げた。もう誰もいない場所を見て、不安になったことまで思い出す。
「動けたら、探しに行く。動けなかったら、誰かに伝える」
「私も、そうする」
スミナが椀を持つ手を直した。
アキスは匙で底をすくった。今度は、煮た根菜の塩気が分かった。
食べ終わるまで、彼女は隣にいた。
*
戦いから五日後、ゼングは森の西で敗走した兵の列を見つけた。
バルタナから追った一行は、舟を乗り換えるたびに足取りが途切れた。森へ入ってからは、味方のはずの軍が道を塞いだ。通してくれと争っている間に、その軍まで退いてきたのだった。
だが、今度は少年の腕を見た者がいた。
布を巻いた巨鬼人が、左手を上げた。
「オデ、ココ、キラレタ。ソノマエ、ウデ、サワラレタ」
「先に切られたのは、腕か」
「ウデ。ナオッテタ。サワル、トマル。オデ、ニンゲン、ツカム。ヒカル。ユビ、キラレル」
ゼングは指ではなく、布の下の前腕を指した。
「触られた後、力もなくなったか」
「チカラ、アル。ニンゲン、ニゲラレナイ。ケド、ユビ、ナクナル。ツカメナイ」
男は、順序を間違えられるのが不快そうだった。前腕を触られた時と、指を失った時は違う。ゼングは質問を変えた。
「今は、治るのか」
「ココ、オソイ。ホカ、ナオル」
布の下には、閉じきっていない傷が残っていた。毒を塗った刃ではなく、素手で触れた時に止まったという。
横からラシュメが身をかがめた。葡萄色の髪の間で、蛇が顔を出す。
「グマドも、その子に触られたの?」
「チガウ。リュウジン、クビ、キッタ。オデ、ミタ」
ラシュメはゼングを見た。
グマドがどれだけ強いかは、二人とも知っていた。腕を変えた少年だけを見て近づけば、その前にあの剣が来る。
野営地を離れると、ゼングはオシュリアから渡された絵を広げた。黒い爪と、腕に盛り上がった白い筋。聞き取った特徴は、絵と一致していた。
「生かして連れてこい。それも、腕をつけたままか」
「受けた仕事でしょう」
「簡単に言うな。手を縛るにも、触らなきゃならん」
「布越しなら、どうなるのかしらね」
ラシュメは絵を巻き直した。
「そこも分からないまま、捕まえに行くつもり?」
ゼングは集落の方へ顔を向けた。負傷者を運ぶための荷車が、森の道を通っていた。
剣の女から少年が離れるまで、距離を取って追う必要があった。




