第33話「言い伝えの外側」
アキスは木剣を腰の帯へ差し、空いた右手を伸ばした。
エミーラの左腕に届く。その直前に、彼女の右の拳が胸へ触れた。
「今、触れたと思ったか?」
「思いました。だから、もう少しで……」
「もう少しの間に、こっちも動ける。剣を収めるところを見せて、一人で近づくのは難しいね」
アキスは後ろへ戻った。ルーシャが横から彼の木剣を抜き、手へ押しつける。
「私が止めるから、その間にやってみて」
シルナエへ着いて七日目の朝だった。宿の修理を手伝う前に、広場の隅を借りて稽古をしている。
ルーシャが先に木剣を打ち込んだ。エミーラは受けるふりをして横へ抜けた。触れに行こうとしていたアキスの前に、ルーシャの背中が来る。
「わっ、ちょっと、アキス! 押さないで!」
「押してない! そっちが戻ってきたんだろ!」
エミーラは二人の木剣へ自分の剣を重ねた。
「相棒が押された時には、一緒に下がる。触ることだけ考えて、支える剣まで片づけない」
次は二人とも下がれた。ルーシャが攻め直すのに合わせ、アキスも剣を出す。エミーラの刃が横へ動いた時、ようやく右手を空けられる間ができた。
木剣を帯へ差し、腕へ触れた。
「届いた!」
喜ぶ前に下がったつもりだった。エミーラの足が追ってきて、アキスは盾で軽い押し返しを受ける。
「そこまで。触れた後にも下がろうとしたのはよかった」
ルーシャが木剣を肩へ載せた。
「私も、ちゃんと止めたでしょ?」
「止めた。だから、今のアキスは一人の時より長く生きられた」
「褒められてるのに、嫌な言い方だな……」
「相手が本当に殴ってきたら、そういう話だよ」
アキスは右手を見た。剥離を使うつもりでは触れていない。エミーラにも、何の変化も起きなかった。
その区別ができることは、毎朝の稽古で確かめていた。
*
昼には、宿の外れた雨樋を直した。
アキスが下から支え、カフリが金具を締める。スミナは宿の主人から借りた布で、濡れた床を拭いていた。ルーシャは高い所の係を欲しがったが、屋根へ跳び上がる前に梯子を渡された。
「せっかく、跳べるようになったのに!」
「屋根を壊さずに上がれるようになったら、頼もうかな」
宿の主人に言われ、ルーシャは黙って梯子へ足をかけた。
下の街路では、年配の森人が水の入った桶を両手で抱えていた。初日にアキスが会った人ではない。カフリも見ていたらしく、金具を締める手を止めた。
「ここでも、力が弱くなる人が増えてるんだな」
マルシカたちが調べている、土地の衰えだった。水をまいても、枝が戻らない木がある。眠れば治る疲れと違うのだと、メルヒナは話していた。
アキスは頭上の雨樋を持ち上げた。
「せめて、雨が降った時くらいは、ちゃんと水を集めたいな」
「上へもう少し。……そこだ」
カフリの指が金具を留めた。
*
十二日目の午後、ロウナムの話を聞きに行った。
トルキナへ送った箱を運んだ道を尋ねているうちに、古い町の名が出た。アキスが軍学校で聞いたことのある名だった。魔女を追い出した土地だという。
「女が魔法を使うから、殺したんですか」
スミナが問い、ロウナムは枝を揺らすのをやめた。
「私が見た話ではない。亡くなった者を埋めた人から聞いた。魔法を使った女も、使わなかった女もいたという。誰かにそうだと言われただけで、連れていかれた者も」
アキスは隣のスミナを見た。彼女の手は膝の上にある。幻を作り、光を放ち、自分たちを守ってきた手だった。
「今なら、スミナが魔法を使っても、そんなことは……」
最後まで言えなかった。
スミナがアキスへ顔を向けた。彼女も何か言いかけ、ロウナムへ視線を戻す。
「魔女だけが使えたのなら、今、私たちが使っている魔法は、どこから来たんでしょう」
「私も、その答えを知らない」
マルシカが持っていた古い記録にも、当時の魔法の使い方は残っていなかった。女を魔女と呼んだ理由、今の人間が原環のもとで魔力を得る仕組み。どこでつながるのか分からないまま、別々の記録に置かれている。
アキスは、自分が魔法を使えなかった時のことを考えた。
使えないことで、何度も悔しい思いをした。それなのに、使えることが誰かを殺す理由になった時代がある。
「話してくれた人は、どうして埋めに行ったんですか」
「知っている者がいた。行かなければ、そこへ置かれたままになるからだと言っていた」
スミナは、ロウナムの根のそばに落ちた葉を拾った。指で葉の端を伸ばし、何も言わずに置き直す。
帰り道、アキスは何を話せばいいか分からなかった。
「私を見たでしょう、さっき」
スミナが先に言った。
「……見た」
「あの時代に生まれていたら、って思った?」
「思った。でも、スミナがどうするか、俺が決める話じゃない」
スミナは少し黙ってから、手すりの向こうを見た。
「私も、自分がどうするかなんて分からないよ。隠すかもしれないし。……助けたい人がいたら、使ってしまうかもしれない」
アキスは、彼女に守られたバルタナの柱の陰を思い出した。
「あの時、使ってくれてよかった」
「今の話と、一緒にしないで」
スミナは少しだけ眉を寄せた。それから、歩幅を緩めた。
「でも、あの時のことなら……私も、間に合ってよかったと思ってる」
二人は並んで橋を渡った。広場から来たルーシャが、遠くから大きく手を振っていた。
*
夜、カフリは部屋に一人になってから、クシェルへ送る文を広げた。
右腕の試験は、メルヒナとアキスから聞いたことだった。自分で見たことのようには書かなかった。魔女の話も、アキスとスミナがロウナムから聞いた伝聞だと添える。
最後に、トルキナの研究所を調べに行く可能性があると記した。出発日はまだ決まっていない。
戸の外で、ルーシャが彼を呼んだ。
「カフリ! 今なら、まだ残ってるよ!」
「何が?」
「焼き実! エミーラが買いに行ったから、なくなる前に!」
カフリは声を立てずに笑い、文を畳んだ。卓の端に筆を置いたままなのに気づき、転がらない所へ戻した。
封じた文を袋へ入れ、戸を開ける。
「ルーシャ、俺の分まで取っておいてくれたんだろうな?」
「呼びに来たんだから、後は自分で走って!」




