第32話「運ばれた肉」
翌朝、ロウナムは庭の入口で枝を振っていた。
「硬くなったぞ」
アキスは歩くのをやめ、駆け寄った。前の日と同じ枝を差し出され、メルヒナの見ている前で左手を当てる。樹皮が固く締まった。
「よかった……」
「私もそう思う。今朝、試すまで分からなかったがね」
アキスは右手を握った。ずっと戻らない力を奪ってしまったのかもしれないと、昨夜は何度も考えた。ロウナムが自分から引き受けてくれたことも、気を楽にはしてくれなかった。
「一晩たてば戻るんですか?」
「そう決めるには、まだ早いかな」
メルヒナが枝の先を確かめた。
「触れていた長さも、ロウナムが休んだことも関係したかもしれない。昨日と同じことが、誰にでも起きるとは限らないよ」
アキスはうなずきかけ、また枝を見た。
「止まったのは、手が当たっていた場所だけでした。じゃあ、触る場所を変えれば……」
「今日は、二つ先の枝までなくなる話はやめてくれ」
ロウナムの声に、アキスは慌てて顔を上げた。
「そういうつもりじゃなくて!」
「分かっている。ただ、その目をしている時は、先に言っておいた方がよさそうだ」
メルヒナは笑ったが、筆を持つ手は止めなかった。
「相手の身体から、その場所に働く力を引き離す。ひとまず、剥離と呼んでおこうか。原因の名前じゃない。今見えた働きにつける名前だよ」
アキスは右手の布を巻き直した。
名がついたからといって、急に扱えるようにはならない。それでも、地下で起きたことを、気のせいのままにはせずに済む。
メルヒナが調べた左右の血は、色も固まり方も大きく違わなかった。ロウナムに頼み、硬くした別の枝へ右から採った血を垂らしてみたが、樹皮の固さは変わらなかった。手で触れた時と同じ変化は、今のところ起きていない。
「手を使う時に、俺が何をしてるのか。それが分かれば、止め方も分かるんでしょうか」
「調べたいね。使うたびに腕が変わるのかも含めて」
メルヒナは軽く答えなかった。アキスも、今日はそれ以上をせかさなかった。
*
マルシカが研究仲間を連れてきたのは、その日の午後だった。
オズフェンの古い記録には、原環の肉を傷めた時の状態が描かれていた。切り口から白い筋が延び、器具にまとわりつくように形を変える。アキスはその図を、右腕と並べて見た。
「似てる」
言ったのはスミナだった。
アキスも同じことを思っていた。自分で口にするのが、少し遅れた。
「でも、絵ですよね。この筋が、何なのかは……」
「この形なら、見たことがある」
ロウナムが枝先で、図の端を押さえた。
マルシカの手が止まった。
「いつ? 運んだ物の中にあったの?」
「トルキナへ運んだ箱だ。途中で中を確かめる時、ふたを開けるのを手伝った。濡れた布の下に、切り分けた肉があった」
ロウナムは、昔、荷を運ぶ隊に加わっていたという。険しい場所では、歩ける根と枝が役に立つ。箱の中身を調べる者ではなく、落とさず届けるために雇われていた。
「何の肉だったんですか」
アキスが身を乗り出すと、ロウナムは図を押さえたまま答えた。
「原環の肉だと、付き添いの者は言っていた。私が切ったところを見たわけではない」
「生きていた?」
「動いた。布を取り替える時、白い筋が器の縁に沿って伸びた。運んでいた者は急いで戻し、ふたを閉めた」
アキスは腕を卓から下ろした。
自分の身体へ、あの肉がつながっている。
そう考えかけて、止めた。似ているのは白い筋だ。形が似ているだけで、そこまで分かるわけではない。分かるなら、メルヒナはもう言っている。
「その箱、どこへ届けたんですか」
「トルキナの研究所へ向かう荷だった。私は下の荷場までしか行っていない。受け取った者の名前は覚えていないが、箱につけた印なら描ける」
マルシカが薄い布を広げた。ロウナムは先の細い枝で、三本の線と、端の開いた弧を描いた。
「これが原環の印なんですか?」
「運ぶ箱の印だよ。他の箱にもあった。中身を決めるものではない」
アキスは布を見つめた。今まで、誰かが自分の腕を見て、答えを知っていてくれればと思っていた。今度は、そこへ行って、運ばれた物を確かめられるかもしれない。
メルヒナが彼の前に図を戻した。
「この絵と証言を持って調べる価値はあると思う。でも、アキスの腕と同じ物だと決めて探すと、違うところを見落とすよ」
「違っていたら、別の理由を探します」
すぐに答えてから、アキスは布の印を指でなぞりかけた。まだ乾いていなかったので、触れる前に引っ込める。
「……できれば、今度は何か分かってほしいですけど」
スミナが布の端を持ち、陽の当たる場所へ移した。急いで畳んでしまわないように、両手で広げている。
*
夕方、アキスはエミーラを探した。
広場にいなかったので宿へ戻ると、窓辺で故郷へ送る便りを書いていた。アキスが戸をたたくと、彼女は筆を置いた。
「腕の話か?」
「トルキナへ行けば、運ばれた肉を調べられるかもしれません」
話し始めると、道中のことまで一度に言いそうになった。エミーラは椅子を引き寄せ、アキスを座らせた。
「落ち着いて。私は今、逃げないよ」
アキスは座ったが、膝の上で両手を握ったままだった。
「俺、森へ来る時は、ここで何か全部分かる気がしていたんです」
「全部?」
「全部は……言いすぎました。でも、次の街へ行く話になるとは、あまり考えてなくて」
エミーラは書きかけの便りを裏返した。乾いた面を上にして、窓の風が当たらない場所へ寄せる。
「私も、土地を戻せると聞きに来たわけではない。それでも、帰れると言ってもらえたら、どれだけ楽かと思うよ」
「エミーラさんも、そう思うんですか」
「思うよ。さっきも、そこまで書いて消した。読んだ人を、また待たせるからね」
窓の外では、枝の上を子供が走っていた。エミーラはその姿を見送り、アキスへ向き直った。
「トルキナへ行くかどうかは、自分で決めなさい。決めたら、同行する者と日程を話そう。剣の稽古は、明日もある」
「その前に、触りに行く練習をしたいです」
アキスは右手を開いた。
「枝なら持てたけど、敵がこの手を待ってくれるわけじゃないから」
エミーラの目が、布を巻いた手から、腰の剣へ移った。
「剣を持って、盾も持っている。その手をどう空ける?」
アキスは剣の柄を見た。右手で触れようとすれば、握っている物を放さなければならない。
「……そこから、教えてほしいです」
「では、明日は木剣を持っておいで。触れた後に殴られるところまで、ちゃんと練習しよう」
「そこも含むんですか!?」
「手を触られただけで、敵が止まるとは限らないだろう」
アキスは、柔らかくなっても動き続けていたロウナムの枝を思い出した。




