第31話「触れた時に起きたこと」
「昨夜、眠れた?」
メルヒナはそう聞きながら、自分の目をこすっていた。金髪が片側だけ跳ねている。
「少しは。メルヒナさんは……」
「僕のことは、今は聞かないでほしいな」
奥の戸からマルシカが顔を出した。
「あの子は明け方まで熱があったの。今は眠ってるわ」
アキスは昨日の子供が運ばれた部屋を見た。メルヒナは冷たい水で手を洗い、診察の卓へ戻ってきた。
「腕は、あの後も形が変わった?」
「見た目は変わっていません。剣も握れます。最初は痛くて、震えていたんですけど」
アキスは布をほどいた。肘の下から黒い爪の先まで、白い筋が盛り上がっている。メルヒナの手が近づき、途中で止まった。
「普通に触って、誰かが具合を悪くしたことは?」
「ないです。スミナも、傷に布を巻いてくれたから」
「それでも、変だと思ったらすぐ言って。僕も手を離す」
メルヒナはまず手首へ触れた。指を一本ずつ曲げ、左右の腕の温度を確かめる。押された箇所は分かった。小指も、意識したとおりに曲がった。
胸の古い傷を見せると、メルヒナは腕へ目を戻した。
「胸が熱くなったのと、腕が変わったのは、どちらが先だった?」
アキスは服の端を握った。
地下の床。剣が通らない肉。逃げるために、触れた右手。
「先に胸です。その後、腕が……痛くなった。中から引っ張られて、どこまで変わるか、分からなくて」
言葉が止まった。隣にいたスミナが、卓の上で自分の指を組み直す。
「腕を押さえても、止まらなかったの。私、布を巻こうとしたけど、触れなくて」
「あの時の痛みは、今はありません」
アキスは先に言った。スミナを見てから、メルヒナへ向き直る。
「元に戻るかも知りたいです。でも、その前に、何が起きたのか分かりたい。もう一度触ったら、また身体が変わるのか。俺が触ったところだけ、あの肉が緩んだのも……」
「触ったところだけ?」
メルヒナは筆を止めた。
アキスは、剣が通らなかった表面が、右手の下で崩れたことを話した。白い筋がほどけ、その部分だけが柔らかくなった。だが、離れた所まで同じようになったわけではない。
「腕が力を吸ったんでしょうか」
「今の話だけで、吸ったとは言えない。アキスがその力を使えるようになったわけでもないんだよね」
メルヒナは右手の爪へ触れず、指の付け根を見た。
「左右の血を少しずつ調べたい。その後、協力を頼める人がいるか、聞いてみる」
「血を……飲むんですか?」
言ってから、アキスは口を押さえた。
メルヒナの目が細くなった。怒ったのかと思ったが、肩が少し揺れている。
「飲まないよ。そこから説明が要るとは思わなかった」
「昨日から、変なことばっかり聞いて……」
「聞かずに、採った血をずっと見張られるより助かる。小皿に分けて、固まり方や色を比べるんだ。僕の食事とは別」
スミナが横を向いた。アキスは顔が熱くなるのを感じながら、左手から出した。
*
翌日の午後、メルヒナは診療所の裏庭へアキスたちを連れていった。
庭の中央に、人の顔ほどのくぼみを持つ木が立っていた。太い幹から枝が左右へ分かれ、根は地面から浮いている。その一本が曲がり、木全体を半歩分、横へ運んだ。
アキスは足を止めた。
「ロウナム、待たせたね」
「待ったが、日向だったから、悪くはなかった」
幹のくぼみから低い声がした。樹人のロウナムだと、メルヒナが紹介した。
「腕を見せてもらえるか。触るのは、私の枝の先からにしよう」
枝がアキスの前へ差し出された。硬い樹皮の下で、細い先端が動く。
ロウナムが力を込めると、枝の表面が暗く締まった。メルヒナが同じ場所へ小さな刃を当てたが、浅い跡しか残らない。力を緩めた後は、軽く押しただけで薄い皮が削れた。
「普段の硬さと、力を使った時の硬さは違う。まず、それを覚えておいて」
メルヒナは枝を拭き、アキスへ場所を譲った。
右手で触れる。変化はない。
ロウナムがもう一度枝を硬くした。アキスの手の下にも、力の入った固さが伝わってくる。
「普通に持っているだけなら、変わらないみたいです」
「では、地下で触れた時は何をしようとしていた?」
メルヒナの問いに、アキスは枝を放しかけた。
逃げたかった。近づく兵を止めたかった。剣の通らない肉を、どうにかしたかった。
「……この下にあるものを、外したいと思いました」
ロウナムが枝を少し下げた。
「無理に思い出さなくていい。私の枝を傷めるのが心配なら、切り落とせる先を出している」
「痛くないんですか」
「痛みがないとは言わない。だから、合図したら放してほしい」
アキスはメルヒナを見た。彼は刃を置き、ロウナムの顔が見える位置へ移った。スミナも、アキスの右手ではなく、肩へ手を添えた。
アキスは枝の表面を見た。
固くしている力を、外す。
白い筋の下が熱くなった。
「離してくれ」
ロウナムが言った。アキスはすぐに指を開いた。
手のあった場所だけ、樹皮の色が戻っていた。ロウナムが力を込めても、そこだけが暗くならない。横の枝は硬くなり、先端も自由に動いた。
「止めた……?」
アキスは自分の手を見た。大きくなってもいない。樹皮も生えていない。
ロウナムは枝を持ち上げ、別の枝先で柔らかくなった部分に触れた。
「ここは変わった。だが、身体の力まで抜けたわけではないな」
メルヒナがアキスの手を確かめた。熱は引き始めていたが、指に細かな震えが残っている。
「もう一度、同じ場所へ触れれば戻せるのかな」
アキスは言いかけて、伸ばした手を引いた。メルヒナに止められたからではなかった。ロウナムの枝には、まださっきの色の違いが残っている。
「……今は、見ていてもいいですか。戻るかどうか」
ロウナムは枝を日向へ出した。
「隣へ座れば見える。立っていると、私の影になるよ」
アキスは幹のそばへ腰を下ろした。スミナも隣に座り、メルヒナが小さな砂時計を卓へ置く。
砂が落ち切っても、枝の一部は柔らかいままだった。




