第30話「エルフだと思っていた」
道の正面に木があった。
アキスはマルシカが右へ曲がるものと思っていた。彼女はそのまま進み、人の背より高く張り出した根の下をくぐる。
「そっち!?」
「ぶつからないわよ。上ばかり見ていると、足の方は危ないけど」
根の向こうで、階段が幹に沿って上へ延びていた。太い枝の上に家が建ち、隣の木へ短い橋が渡っている。窓から差し出された洗濯物を、下の階の住人が棒で引っかけて受け取っていた。
その頭上を、野菜の詰まった籠がゆっくり下りてくる。
「アキス、そこ、荷物が来る」
スミナに引かれ、アキスは根のそばへ寄った。籠を受け取った森人の女性が、上の窓へ声を返す。
「一つ足りないよ! 昨日の分もって言ったでしょう!」
「窓の横! そこに置いた!」
誰かが笑い、別の窓からも顔が出た。
森の都シルナエは、静かな場所ではなかった。
マルシカは階段の途中で足を止め、脇に立つ建物へ入った。背負っていた包みを下ろすと、奥から出てきた研究仲間が目を丸くした。
「それ、オズフェンの字か?」
「古い記録が二包み。最後の年は、三枚分だけ」
「三枚?」
マルシカは焼けた革を一枚取り出した。残りの二枚は、スミナが火の中で覚えた内容を書き移したものだ。研究仲間の手が、焦げた端のすぐ前で止まった。
「……帰ったら怒鳴ってやるつもりだったんだがな」
「私もよ。だから、まず読んで。何を確かめに行ったのか、本人の字で知りたいの」
アキスは入口の横で待った。三枚を守れたことだけを考えていたが、その前には、帰りを待っていた人がいる。研究仲間が椅子を引くのを見て、荷を持ち直した。
*
宿へ着く前に、エミーラが足を止めた。
「焼いている匂いがするね」
「エミーラさん、荷を置いてから」
「ルーシャも止まっているよ」
「私を言い訳にした!!」
そう言いながら、ルーシャの鼻も広場へ向いていた。
結局、荷を下ろして戻った時には、屋台の最初の焼き実が売り切れていた。エミーラは何も言わなかった。ただ、アキスの顔を一度だけ見た。
「俺のせいですか……?」
「次が焼けるまで待とうと言おうとしたんだよ」
カフリが声を殺して笑う。スミナは屋台の向こうで舞う、光の鳥に気を取られていた。
広場の踊り手が手を開くと、鳥が一羽ずつ違う向きへ飛んだ。羽の形まで細かく変わる。本物を追うように子供が手を伸ばし、指が光を通り抜けた。
「あれ、同じ形を動かしてるだけじゃないんだ」
スミナは自分の手を開いた。小さな光が浮かび、羽になる前に崩れる。
「私、踊ろうか?」
「ルーシャを写すの?」
「鳥より大きいから、分かりやすいでしょ」
ルーシャは踊り手を見て、同じように片脚を上げた。スミナが写身を作ると、隣にも同じ姿が現れる。首をかしげるところまでは似ていたのに、笑った時、幻の口元が遅れた。
「私、こんな顔する!?」
「笑うの、少し待って。口の方が追いついてないから」
「待ってって言われても、こっちが変な顔してるんだもん!」
アキスも笑った。幻までこちらを向いたので、余計に止まらなくなった。
マルシカが広場へ戻ってきたのは、ようやく焼き実を買えた頃だった。
「ノルセイ! ちょうどよかった。メルヒナのところへ行く道、工事していなかった?」
階段を下りていた青年が振り向いた。短い薄紫の髪から、長い耳が出ている。肩の弓を持ち直すと、マルシカの前へ来た。
「南の橋なら、もう通れる。……今度は本当に確かめてあるぞ」
「橋が落ちていた件、まだ言っていないでしょう?」
「その顔で言わずに済ませると思うか?」
マルシカは笑って、青年を紹介した。ノルセイは街の外へ出る人たちを案内し、道を守る兵だという。
「診療所なら一緒に行く。届ける物があるんだ」
彼の袋には、乾いた薬草が詰まっていた。
*
診療所は広場より低い場所にあった。地面から直接入れる戸口と、上の家へ続く階段がある。脚を傷めた人でも、木の上まで上がらずに来られる造りだった。
棚の前で、金髪の青年が瓶を並べていた。肩にかかる柔らかな髪、白い肌、こちらへ向いた深い赤の目。マルシカの知り合いで、森の都の研究者だと聞いていたので、アキスはこの人も森人なのだと思った。
「メルヒナ。手紙で話したアキスよ」
「来るのは明日だと思ってた。道、早く通れたんだね」
メルヒナは椅子を引き、アキスの腕を見る前に荷袋を指した。
「まず下ろして。ずっと背負ってきたんだろう」
「これくらいなら平気です」
「腕の布をほどく時も?」
アキスは荷を下ろした。
メルヒナは笑いかけたが、途中で戸口へ目を向けた。外で誰かが走っている。まだ姿が見えないうちに、棚から布を取っていた。
「ノルセイ、そっちの寝台を空けて」
戸が開いた。脚に折れた枝が刺さった子供を、女性が抱えていた。追ってきた家族が何か言いかけると、メルヒナは寝台のそばへ呼び寄せた。
「そのまま下ろそう。枝を抜かずに来てくれてよかった。脚は僕が持つから、頭を支えて」
子供が泣き、家族が何度もその名を呼んだ。
アキスは椅子を壁へ寄せた。メルヒナは布を当てる位置を確かめ、マルシカへ別の瓶を頼んでいた。アキスの腕に目を戻せる状態ではない。
「明日、また来ます」
「……ごめんね。朝、時間を空けておく」
メルヒナが顔を上げたので、アキスはつい気になっていたことを聞いた。
「森人って、あんなに遠くの足音まで分かるんですか?」
ノルセイの手が止まった。メルヒナも一瞬、こちらを見たままになった。
「僕?」
「入ってくる前に、気づいてたから」
「血の匂いだよ。僕は吸血人なんだ」
「えっ!? 森人じゃ――」
子供がまた泣いた。アキスは口を閉じた。聞きたいことが幾つも浮かんだが、今ここで並べるわけにはいかなかった。
メルヒナが笑うと、長い犬歯が見えた。
「質問も明日。今日は、こっちの脚を先に診てもいいかな」
「すみません! 明日、来ます!」
戸を閉めてから、アキスは自分の額へ手を当てた。
「俺、最初からずっと……」
「森人の街だから、って?」
スミナが聞いた。アキスが彼女を見ると、笑うのをこらえている顔だった。
「スミナは分かってたのか?」
「会ったばかりだもの。聞こうとは思ってたよ」
「私、歯を見た時に分かった!」
「ルーシャ、それ、今じゃないか」
「今だけど、言う前には分かったもん!」
カフリがアキスの背中を軽く押した。
「明日は腕の話から始めろよ。気になるのは分かるけどな」
アキスは、まだ閉じた戸を見ていた。メルヒナは腹を立てていなかったように見える。だからといって、診察の最初にまた同じ話をするのは、かなり恥ずかしかった。
帰り道の水場で、桶を持ち上げられずにいる森人に出会った。アキスが運ぶのを手伝うと、朝は持てたのに、と相手がこぼした。
隣の家では枝が細くなり、窓を支える金具だけが余っていた。
広場の光の鳥を思い出した。同じ街の中でも、力を使える人と、使えなくなりつつある人がいる。
宿へ戻ると、アキスは右腕の布をほどいた。明日、まず何を聞くか。それだけは、眠る前に決めておきたかった。




