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楽園の獣  作者: 静原律
第三章 森を喰らうもの

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第29話「止まるための一歩」

 木剣の先が胸へ向いた。


 アキスは踏み込もうとしていた足を止めた。身体だけが前へ残り、今度は引き戻そうとした足が地面を滑る。エミーラの木剣が、肩へこつんと触れた。


「……これ、攻めた方が負けませんか」


「今のは、攻める前に転びそうになっていたね」


「止まれって言ったの、エミーラさんでしょう!?」


「危なければ止まる。危なくなければ進む。私は毎回、止まれとは言っていないよ」


 言い返したかったが、後ろでルーシャが笑っていた。


「足だけ行って、上が帰ってきてた!」


「次、ルーシャがやってみろよ」


「いいよ。私なら――」


 勢いよく立ったルーシャが、エミーラの前で足を止めた。すぐに飛び出し、木剣を振る。エミーラが一歩引くと、彼女の剣先は胸の手前で空を切った。


「あっ、今、下がった!!」


「私も動くよ。的ではないからね」


 宿場の裏庭で、カフリが腹を抱えた。ルーシャが振り向く。


「笑ったな! カフリも後でやるから!」


「俺、投げる方なんだけど」


「逃げる練習にちょうどいいじゃない!」


 バルタナを発って、ひと月が過ぎていた。


 初めのうちは、舟が岸へ着いても立ち上がるのに時間がかかった。アキスが荷を持とうとするたび、スミナに先に取られた。傷口がふさがってからも、右の脇腹(わきばら)をひねると痛んだ。


 今は木剣を振れる。ルーシャも右脚をかばわず歩くようになった。ただ、長く動いた後は休む。宿場で傷を診てもらい、痛みが戻った日は走らない。アキスより先にルーシャがそれを破り、翌朝、階段を横向きに下りる羽目になった。


 その日は、誰も笑わなかった。本人が本気で怒っていたからだ。


「アキス。さっきと同じように来てみなさい」


 エミーラが木剣を下げた。アキスは庭の端から距離を測る。数歩で届く。その最初の一歩を速くするため、後ろの脚へ力を込めた。


 今度はエミーラの剣先だけを見なかった。


 肩が動いた。前足が少し開く。こちらを迎える突きが来る。


 アキスは遠くへ足を出さず、踏み込みを短く切った。胸の前を木剣が通る。その横へ踏み直そうとすると、エミーラの剣はもう戻っていた。


 手首を打たれた。


「いっ……今、避けたのに!」


「だから次を打った。止まれた後、どうする?」


 アキスは手首をさすった。バルタナでは、ゼキトの横へ出ようとして、自分から刃の届く所へ走ってしまった。あの時も、こうして止まれれば。


 そこまで考えて、木剣を握り直した。


「もう一回。次は、剣も戻します」


「次にどうするかは、来る途中で決めなさい」


     *


 雨が続く週には、屋根の下で剣を返す動きを繰り返した。


 連牙(れんが)の二撃目から先へつなぐと、アキスの右肩が外へ流れた。エミーラは腕を引き戻させず、前足を置く場所を変えた。腰が回る幅が小さくなり、木剣が身体のそばへ戻る。


 その先に、三撃目を出せる場所があった。


 嬉しくて速く振ると、また足が遅れた。


「できた時ほど、次を急ぐね」


「今の、もう一度できそうだったんです」


「その一度を待っている間に、夕食がなくなる」


 エミーラは木剣を壁へ立てかけた。アキスは戸口の明かりを見た。彼女は肩にかかる白銀の髪を後ろへ払い、先に入ってしまう。


 あと一回だけ。


 そう思って構えたところで、戸の中から声が来た。


「アキスの分、私がもらっていい?」


「ルーシャ、それは駄目だ!!」


 木剣を片づけて追うと、ルーシャはまだ自分の器を抱えていた。スミナが隣の席を空け、アキスの器をそちらへ寄せてくれる。


「本当に食べるところだったよ」


「まだ食べてないもん。待ってたんだから、褒(ほ)めてほしいくらい!」


「俺の分を食べないだけで!?」


 アキスが座ると、カフリは卓の下から木片を拾った。曲がった薄い木だ。片側だけ削りすぎている。


「それ、また作り直すの?」


 スミナに聞かれ、カフリは木片を指先で回した。


「まっすぐ飛ばすなら、買ったナイフがあるだろ。木の裏へ回せる形にしたいんだが、今のところ俺の頭へ帰ってくる」


「帰ってくるなら、いいんじゃない?」


「ルーシャ。刺さる向きで帰ってくるのは困るんだよ」


 近くの素材を形作って切り出す武器錬成(ぶきれんせい)を、カフリは旅の休憩ごとに練習していた。落ちた枝から短い槍(やり)を作り、壊れた鉄の輪から刃を取り出す。硬さを保つ付与魔法(エンチャント)を施して投げても、狙う方向まで魔法が決めてくれるわけではない。


 拾いに走るのは、いつも本人だった。


「曲がって飛ぶところ、明日も見せて」


 スミナは木片の動きを目で追っていた。


「幻にするのか?」


「動きの途中で、見え方が変わるでしょう。ルーシャを写しても、後ろへ回る時に肩が変になるから」


「私、変な動きしてる?」


「私の幻の話!」


 スミナの声が少し大きくなった。ルーシャは笑って、彼女の肩へ自分の肩を寄せた。


     *


 二か月目の終わり、アキスの木剣が初めてエミーラの服へ触れた。


 突きを待って止まり、引かれた剣を追わずに横へ踏んだ。連牙(れんが)の二撃目は防がれたが、身体を回しすぎずに返した三撃目が、彼女の左の袖(そで)をかすめた。


 アキスは剣を止めた。


「今、当たっ――」


 胸へ木剣が触れた。


「当たったよ。私にも、今のは当たった」


「そこは待ってくださいよ!!」


 エミーラは剣先を下げ、笑った。


「待ってほしいなら、試合の前に言っておきなさい。……よく届いたね。腕だけで三つ振らなくなった」


 アキスは何も返せず、自分の木剣を見た。袖(そで)に触れた感触がまだ残っていた。ルーシャが肩をたたきに来て、勢いが強すぎると抗議する頃には、また笑っていた。


 その晩、メイハへの便りに、ようやく剣が届いたと書いた。喜んだ直後に打たれたことも、迷ってから書き添えた。


 スミナに黙っていてもらっても、ルーシャが話してしまいそうだった。


     *


 三か月目には、森の中を歩く日が増えた。


 ルーシャが両脚を獣の形へ変え、根に手をつき、弾面(だんめん)と声を上げた。触れた表面がばねのように沈み、踏んだ足を強く押し返す。彼女は跳び上がって低い枝へつかまり、得意げに振り返った。


「今度は、ちゃんと着いた!」


「着いた先から下りるところまでが練習だぞ」


 カフリの声に、ルーシャは枝の下を見た。


「……下で受けてくれる?」


「その高さは無理だって!」


 エミーラが下りられる枝を指した。ルーシャはそこまで移り、両脚を元の形へ戻して地面へ降りた。空中を踏むことはできない。跳べる高さだけが伸びても、降りる場所は自分で選ばなければならなかった。


 マルシカが先の道から呼んだ。


「明日の昼にはシルナエよ。今日は、もう練習を切り上げて。宿まで行けば、寝台があるから」


 カフリが地面に落ちた木の武器を拾う。今では木の横を回り、向こうにつるした布包みへ届くようになっていた。それでも、帰りは歩いて取りに行く。


 アキスは右腕の布を巻き直した。白く盛り上がった筋も、黒い爪(つめ)も、三か月前と同じだった。


 剣を握る時の痛みはなくなった。それで、この腕が分かったことにはならない。


 原環(ウルセド)へ触れた時、胸の奥で熱くなったものは何だったのか。なぜ、自分だけがここに立っているのか。


 夜に寝床へ入っても、診察で話すことを順に考えていた。


 翌朝、出発を待っていたのはアキスだけではなかった。スミナも袋を背負って戸口に立ち、眠そうな目でこちらを見る。


「早すぎたね」


「まだ、誰も起きてないか?」


「エミーラさんは起きてた。二人とも、座って待ってなさいって」


 アキスは戸口の段へ腰を下ろした。スミナも隣へ座る。森の上が明るくなるまで、今度は木剣を取りに戻らなかった。


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