第29話「止まるための一歩」
木剣の先が胸へ向いた。
アキスは踏み込もうとしていた足を止めた。身体だけが前へ残り、今度は引き戻そうとした足が地面を滑る。エミーラの木剣が、肩へこつんと触れた。
「……これ、攻めた方が負けませんか」
「今のは、攻める前に転びそうになっていたね」
「止まれって言ったの、エミーラさんでしょう!?」
「危なければ止まる。危なくなければ進む。私は毎回、止まれとは言っていないよ」
言い返したかったが、後ろでルーシャが笑っていた。
「足だけ行って、上が帰ってきてた!」
「次、ルーシャがやってみろよ」
「いいよ。私なら――」
勢いよく立ったルーシャが、エミーラの前で足を止めた。すぐに飛び出し、木剣を振る。エミーラが一歩引くと、彼女の剣先は胸の手前で空を切った。
「あっ、今、下がった!!」
「私も動くよ。的ではないからね」
宿場の裏庭で、カフリが腹を抱えた。ルーシャが振り向く。
「笑ったな! カフリも後でやるから!」
「俺、投げる方なんだけど」
「逃げる練習にちょうどいいじゃない!」
バルタナを発って、ひと月が過ぎていた。
初めのうちは、舟が岸へ着いても立ち上がるのに時間がかかった。アキスが荷を持とうとするたび、スミナに先に取られた。傷口がふさがってからも、右の脇腹をひねると痛んだ。
今は木剣を振れる。ルーシャも右脚をかばわず歩くようになった。ただ、長く動いた後は休む。宿場で傷を診てもらい、痛みが戻った日は走らない。アキスより先にルーシャがそれを破り、翌朝、階段を横向きに下りる羽目になった。
その日は、誰も笑わなかった。本人が本気で怒っていたからだ。
「アキス。さっきと同じように来てみなさい」
エミーラが木剣を下げた。アキスは庭の端から距離を測る。数歩で届く。その最初の一歩を速くするため、後ろの脚へ力を込めた。
今度はエミーラの剣先だけを見なかった。
肩が動いた。前足が少し開く。こちらを迎える突きが来る。
アキスは遠くへ足を出さず、踏み込みを短く切った。胸の前を木剣が通る。その横へ踏み直そうとすると、エミーラの剣はもう戻っていた。
手首を打たれた。
「いっ……今、避けたのに!」
「だから次を打った。止まれた後、どうする?」
アキスは手首をさすった。バルタナでは、ゼキトの横へ出ようとして、自分から刃の届く所へ走ってしまった。あの時も、こうして止まれれば。
そこまで考えて、木剣を握り直した。
「もう一回。次は、剣も戻します」
「次にどうするかは、来る途中で決めなさい」
*
雨が続く週には、屋根の下で剣を返す動きを繰り返した。
連牙の二撃目から先へつなぐと、アキスの右肩が外へ流れた。エミーラは腕を引き戻させず、前足を置く場所を変えた。腰が回る幅が小さくなり、木剣が身体のそばへ戻る。
その先に、三撃目を出せる場所があった。
嬉しくて速く振ると、また足が遅れた。
「できた時ほど、次を急ぐね」
「今の、もう一度できそうだったんです」
「その一度を待っている間に、夕食がなくなる」
エミーラは木剣を壁へ立てかけた。アキスは戸口の明かりを見た。彼女は肩にかかる白銀の髪を後ろへ払い、先に入ってしまう。
あと一回だけ。
そう思って構えたところで、戸の中から声が来た。
「アキスの分、私がもらっていい?」
「ルーシャ、それは駄目だ!!」
木剣を片づけて追うと、ルーシャはまだ自分の器を抱えていた。スミナが隣の席を空け、アキスの器をそちらへ寄せてくれる。
「本当に食べるところだったよ」
「まだ食べてないもん。待ってたんだから、褒めてほしいくらい!」
「俺の分を食べないだけで!?」
アキスが座ると、カフリは卓の下から木片を拾った。曲がった薄い木だ。片側だけ削りすぎている。
「それ、また作り直すの?」
スミナに聞かれ、カフリは木片を指先で回した。
「まっすぐ飛ばすなら、買ったナイフがあるだろ。木の裏へ回せる形にしたいんだが、今のところ俺の頭へ帰ってくる」
「帰ってくるなら、いいんじゃない?」
「ルーシャ。刺さる向きで帰ってくるのは困るんだよ」
近くの素材を形作って切り出す武器錬成を、カフリは旅の休憩ごとに練習していた。落ちた枝から短い槍を作り、壊れた鉄の輪から刃を取り出す。硬さを保つ付与魔法を施して投げても、狙う方向まで魔法が決めてくれるわけではない。
拾いに走るのは、いつも本人だった。
「曲がって飛ぶところ、明日も見せて」
スミナは木片の動きを目で追っていた。
「幻にするのか?」
「動きの途中で、見え方が変わるでしょう。ルーシャを写しても、後ろへ回る時に肩が変になるから」
「私、変な動きしてる?」
「私の幻の話!」
スミナの声が少し大きくなった。ルーシャは笑って、彼女の肩へ自分の肩を寄せた。
*
二か月目の終わり、アキスの木剣が初めてエミーラの服へ触れた。
突きを待って止まり、引かれた剣を追わずに横へ踏んだ。連牙の二撃目は防がれたが、身体を回しすぎずに返した三撃目が、彼女の左の袖をかすめた。
アキスは剣を止めた。
「今、当たっ――」
胸へ木剣が触れた。
「当たったよ。私にも、今のは当たった」
「そこは待ってくださいよ!!」
エミーラは剣先を下げ、笑った。
「待ってほしいなら、試合の前に言っておきなさい。……よく届いたね。腕だけで三つ振らなくなった」
アキスは何も返せず、自分の木剣を見た。袖に触れた感触がまだ残っていた。ルーシャが肩をたたきに来て、勢いが強すぎると抗議する頃には、また笑っていた。
その晩、メイハへの便りに、ようやく剣が届いたと書いた。喜んだ直後に打たれたことも、迷ってから書き添えた。
スミナに黙っていてもらっても、ルーシャが話してしまいそうだった。
*
三か月目には、森の中を歩く日が増えた。
ルーシャが両脚を獣の形へ変え、根に手をつき、弾面と声を上げた。触れた表面がばねのように沈み、踏んだ足を強く押し返す。彼女は跳び上がって低い枝へつかまり、得意げに振り返った。
「今度は、ちゃんと着いた!」
「着いた先から下りるところまでが練習だぞ」
カフリの声に、ルーシャは枝の下を見た。
「……下で受けてくれる?」
「その高さは無理だって!」
エミーラが下りられる枝を指した。ルーシャはそこまで移り、両脚を元の形へ戻して地面へ降りた。空中を踏むことはできない。跳べる高さだけが伸びても、降りる場所は自分で選ばなければならなかった。
マルシカが先の道から呼んだ。
「明日の昼にはシルナエよ。今日は、もう練習を切り上げて。宿まで行けば、寝台があるから」
カフリが地面に落ちた木の武器を拾う。今では木の横を回り、向こうにつるした布包みへ届くようになっていた。それでも、帰りは歩いて取りに行く。
アキスは右腕の布を巻き直した。白く盛り上がった筋も、黒い爪も、三か月前と同じだった。
剣を握る時の痛みはなくなった。それで、この腕が分かったことにはならない。
原環へ触れた時、胸の奥で熱くなったものは何だったのか。なぜ、自分だけがここに立っているのか。
夜に寝床へ入っても、診察で話すことを順に考えていた。
翌朝、出発を待っていたのはアキスだけではなかった。スミナも袋を背負って戸口に立ち、眠そうな目でこちらを見る。
「早すぎたね」
「まだ、誰も起きてないか?」
「エミーラさんは起きてた。二人とも、座って待ってなさいって」
アキスは戸口の段へ腰を下ろした。スミナも隣へ座る。森の上が明るくなるまで、今度は木剣を取りに戻らなかった。




