第2話「舞台の裏で」
休日の通りは人で混んでいた。アキスは十一歳の妹メイハの肩へ手を置き、荷物を担いだ男が通れるよう、道の端へ寄せた。店の軒先から焼いた生地の匂いが流れ、メイハが立ち止まりかける。
「帰りにしよう。今止まったら、スミナに怒られる」
「お兄ちゃんの分、私が選んでいい?」
「俺の分まで選ぶのか?」
「だって、お兄ちゃん、いつも同じのだもん。今日は私が選ぶ!」
アキスが返事をする前に、メイハはもう歩き始めていた。妹を追い、学校の東にある劇場へ向かった。今日は同級生のスミナに、舞台の仕度を手伝ってほしいと頼まれていた。
裏口では、デンバルが片手に小さな腰掛けを持っていた。人が座れないほど小さかったそれを床へ置き、手を触れる。脚が伸び、座面が広がり、普通の大きさへ戻った。
「あーっ、大きくしちゃった! さっきの、私の人形にちょうどよかったのに」
メイハがしゃがみ込むと、デンバルは腰掛けへ自分の腰を下ろした。
「ちょっと待った。俺より人形が先か?」
「デンバルの膝、空いてるでしょ。一緒に座れるよ」
「それで、その人形は?」
メイハは腰の袋へ触れ、口をとがらせた。
「家で留守番」
「ここにもいないのかよ!? じゃあ、俺に座らせてくれよ……」
デンバルは両脚を投げ出したが、スミナに呼ばれると、すぐに腰掛けを空けた。
デンバルの縮装は、自分で持ち運べる道具を一つ、小さくできる。重さは変わらず、どこまでも小さくできるわけではないが、狭い入口にかさばる物を通すには便利だった。
デンバルが劇場の中を指した。
「アキス、ちょうどよかった。奥にでっかい絵があるんだ。あれは一人じゃ無理でさ」
アキスはメイハと一緒に、デンバルの後について劇場へ入った。外から見るより奥行きがある。床の低い客席に長椅子が並び、その先の舞台を飾り布が囲んでいた。客席から見えない両端には、道具を置き、人が出入りするための細い場所があった。
黒い前髪を下ろしたスミナが、舞台の端で絵の具を片付けていた。アキスたちに気づくと、壁に立てかけた大きな背景画を示す。アキスの背よりも高い横長の絵で、緑の葉を広げた木々と、根元に咲く白い花が描かれていた。
「その絵、舞台の奥まで運んでくれる? あっ、デンバル、待って。そっちはまだ乾いてない! 下を持って。下!」
アキスとデンバルは背景画の左右を持ち、壁から離した。二人で舞台の奥へ運び、積まれた道具の手前に、絵の面を客席へ向けて立てる。二人が押さえている間に、スミナが裏に付いた支えの脚を開いて固定した。アキスたちは支えにぐらつきがないことを確かめてから、手を離した。
「この絵、全部スミナが描いたのか」
「……そうだけど。そんなに見ないでよ、まだ近くからだと変なところがあるから。あとで客席から見て。白い花のところも写してみる」
スミナは絵の具の片付けへ戻った。アキスも道具箱へ近づいたが、先にメイハがしゃがみ込む。
「スミナ、私にも何かやらせて!」
「絵の具のふた、閉めてくれる? そっちの赤いのから。服につくと、なかなか落ちないんだよ」
仕事をもらったメイハは、兄を振り返らずに絵の具のふたを閉め始めた。アキスは二人に片付けを任せ、背景画が傾いていないか確かめようと客席へ下がった。
その時、舞台の横の布が揺れた。
下から太い尾が伸びている。先が、待ちきれないように床を掃いていた。アキスが尾を見ると、メイハも気づいた。口を押さえた妹へ、スミナが小さく首を振る。
アキスは知らないふりで近づいた。
「ルーシャは、まだ来てないのか」
尾が勢いよく揺れた。
布の中で身を起こす音を聞き、アキスは先に布をめくった。飛び出そうとしていたルーシャと、顔を突き合わせる。
「わあっ!? な、なんでこっちが驚くの!?」
「尾。ずっと出てた」
彼女は振り返り、自分の尾を両手で抱えた。メイハとスミナの顔を見ると、二人が知っていたことにも気づいたらしい。
「メイハまで! 教えてよぉ、知ってたなら!」
「だって、言ったらお兄ちゃんにも聞こえちゃうよ?」
「……それもそうか。じゃあ、次は合図を――」
「次は私の番。ルーシャ、そこ使うから」
スミナはルーシャの横へ入り、客席を指した。
「みんな、あっちから見て。絵を片付けても同じに見えるか、教えてほしいの」
スミナが布を留め直した。ルーシャが一番に客席へ降り、真ん中の長椅子を両手でたたく。アキスたちも、その隣へ座った。
四人が座ると、スミナの父が道具を置いて舞台へ来た。背景画を持とうと手を伸ばしたところで、娘に止められる。
「父さんっ、まだ!! 今から写すの! 片付けてどうするの!」
父は笑って手を下ろし、娘の横で待った。スミナは背景画の正面へ進み、森の絵をしばらく見つめた。
「留景」
彼女が脇へ退いて合図をすると、デンバルが客席から立った。父と二人で背景画の両端を持つ。
「待って、裏の脚がまだ開いてる。そのまま持ってて」
スミナが背景画の裏へ回り、戻ってきて合図をした。父とデンバルはその背景画を持ち上げ、舞台横の布の向こうへ運んでいった。
実物の背景画がなくなっても、舞台の奥には緑の木々と白い花が見えていた。スミナが写し取った森の幻だ。
「触ってもいい?」
メイハが席から立つと、スミナは舞台の端へ来て手を差し出した。
「通り抜けちゃうよ」
メイハはその手を借りて舞台へ上がり、森の幻へ指を伸ばした。指先が幻をすり抜け、手首から先が見えなくなる。驚いて手を引くと、指が再び現れた。
「わっ、手が……! ねえ、お兄ちゃん、見た!? なくなっちゃった!」
メイハは自分の指を確かめ、すぐにまた手を伸ばした。アキスは客席からその様子を見ていた。
「本物の背景画と、見分けがつかないな」
スミナは口元を緩め、手を出したり引っ込めたりしているメイハへ目を戻した。
背景画を片付けた父が舞台へ戻り、森の幻の後ろへ回った。姿が幻に隠れたと思うと、そこを通り抜けて前へ出てくる。眠そうに目をこすり、両腕を上げて大きな伸びをしたので、メイハが笑い出した。
「いいなあ。次の芝居でも、この森を貸してくれないか」
「えっ、お客さんの前で? 途中で消えたらどうするの。父さんの後ろ、丸見えになるよ」
「そこも森の中、という顔で続けるしかないかな」
「腰掛けが山積みの森なんてある!?」
父は後ろを振り返り、笑いながら頭をかいた。
「まずは稽古で試させてくれ。短い場面を選ぶから」
「短いところだけだよ。あとで長くしないでね。……どこで使いたいの? そこに合わせて練習するから」
スミナが術を解くと、森の幻が消え、父の後ろに積まれていた道具が姿を現した。メイハはさっきまで手を伸ばしていた場所を、もう一度見た。
劇場を出る頃には日が傾いていた。祈り堂の前でメイハが足を止め、両手を合わせる。女神エスタルネの像の下では、街の灯りと治療を支える原環への感謝が唱えられていた。
アキスも妹の隣へ立ち、両手を合わせた。
「お兄ちゃん、忘れてない?」
祈りを終えた妹が、商店の方を指す。
「私が選ぶ約束! お兄ちゃん、先に決めちゃだめだからね!」
アキスは小銭の入った袋を確かめ、妹と一緒に、まだ開いている店へ走った。




